室町時代
むろまちじだい
概要
概要
基本的には「室町幕府が存在していた時代」のこと。
1336年に足利尊氏が建武式目を制定し事実上後に室町幕府と呼ばれる自らの武家政権を樹立(征夷大将軍叙任は1338年)したときから、1573年に足利義昭が京都を追放されて中央政権としての室町幕府が消滅するまでを指すことが一般的である。
概ね、この頃は日本の武家文化が発展していった時期として知られるが、実際にはこのうち1392年の南北朝合一までは南北朝時代、1467年の応仁の乱勃発または1493年の明応の政変以降は戦国時代として、長く多くの戦乱が相次いだ動乱の時期である。
南北朝時代と戦国時代の合間の約70~100年間を狭義の室町時代とする場合もある。南北朝時代、戦国時代についてはそれぞれの記事も参照のこと。
あまりにややこしいため、知名度が高い戦国時代を除けば日本史の授業で苦手な人が多いと言われる。
この時代のpixivイラストとしては、時代の終わりと始まり、すなわち主に「戦国」タグが使われる戦国時代、次いで主に「南北朝」タグが使われる南北朝時代が多い。
経済
経済
水力の自転揚水車が発達し、用水路が開削されるなどの成果により山間部の開墾が進む。これらと肥灰と呼ばれる草木灰の肥料活用等によって、米と麦との二毛作や米・麦・蕎麦の三毛作すら広まっていった(今谷明『日本国王と土民』)。村請(むらうけ)制と呼ばれる、年貢等の収納を領主に代わって村が代行するシステムが広まり、その維持のために村は家役と呼ばれる住民税の徴収権も得る。かくして農民の経営実態を把握する権限は領主から惣と呼ばれた自治村に移った(坂田聡「百姓の家と村」『村の戦争と平和』)。坂田によると惣では、有力な農民は各々本家と分家の家長(座衆と呼ばれた)を集めた宮座という自治機構を構成し、また村の若者からなる若衆という武力集団を有した。同じく坂田によれば、村は村周辺の用水や山野の森林資源を管理し、それらを巡って近隣の村としばしば武力衝突した。このような武力衝突には「相当の儀(やられた分だけやり返す)」で収める慣習があったが、報復合戦によるエスカレートの危険をはらみ、その回避が深刻な課題になっていた(稲葉継陽「戦国から泰平の世へ」『村の戦争と平和』)。また、村は村内の殺人や盗みについて一定の刑事裁判権を有し、近隣の村との争いでは他の村による仲裁と守護や幕府に訴えての仲裁とが併用されていたらしい(榎原雅治「むすびあう地域」『村の戦争と平和』)。榎原によれば、これらの裁判では湯起請(ゆぎしょう、双方が熱湯から石を取り出して火傷が酷いと神の意に沿わないと見なされて敗訴)のような神裁がよく用いられたらしい。(村の鎮守での湯起請ばかりか、守護の法廷や幕府ですら)このような裁判が行われた目的は、真相の究明ではなく、真相を巡る疑心暗鬼を防ぎ社会の安定を維持することにあったとのこと。
鋳物工が諸国に定住し各地で農具を自給できるようになる等地方に住む職人の増加、また定期市に常住する商人も増えるなどして地方都市が増加し、特に領主や大名の城下町が発展した(笹本正治『異郷を結ぶ商人と職人』)。また戦国時代には南蛮貿易も始まり、日本がアジア以外の世界とも繋がりをもつようになった。ポルトガルから種子島に鉄砲が伝来すると、またたく間に堺や根来で生産が本格化し、日本は世界有数の銃武装国家となった。農業・工業の生産能力の向上につれて流通・交易も増大し座(当時の流通業界団体)が活発に活動して諸国の特産品を全国に流通させ、後期にはそれまでにない自治能力・固有の武力を持つ大規模な商業都市(堺・博多など)が出現するに至った。鎌倉時代に続いて貨幣の公的鋳造はなく、幕府等の明との貿易によって永楽通宝を代表とする銭の輸入がなされ私鋳銭も多く作られたらしい。貨幣経済の進展と遠隔地交易の発達によって為替が普及し、また銀行業・質屋を営む土倉が経済力を持つなど金融業の発達も見られた(笹本、同書)。
文化
文化
文学では室町時代初期以来連歌が栄え、二条良基らが『莬玖波集』を編纂して、足利尊氏や足利義詮、佐々木道誉といった武家も多く歌を詠んでいる。御伽草子と呼ばれた絵入りのおとぎ話があらわれ、『一寸法師』や『浦島太郎』はこのころ成立したようだ。演劇では、足利義満の時代の北山文化を中心に観阿弥・世阿弥らによって能(能楽)、狂言が発達した。茶道も出現したが、当初は「闘茶」と呼ばれる茶の産地を当てる賭け事であり、バサラな遊びであった。足利義政の東山文化のころに賭けを離れた茶道が成立し、後に武野紹鴎、千利休らによって「侘び茶」が大成する。東山文化には他に雪舟などの水墨画、香木の繊細な香りを鑑賞する香道、また現在の日本家屋のベースとなる書院造が発達している。
仏教では、幕府の保護によって禅宗が栄え、鎌倉五山・京都五山と呼ばれる寺格制度によって多くの寺院が建てられ、禅の精神に基づく優れた庭園が造られた。延暦寺や岩清水八幡宮のような伝統寺社、禅宗等の新興寺社とも座や土倉を運営・保護し門前町を作らせるなど商工業の保護者としても活躍している。しかし権力の保護や商工業での活動によって腐敗する悪僧や神人も見られ、一休宗純のように仏教の腐敗を警告する活動も現れた。当時衰退していた浄土真宗に本願寺第8世の蓮如が登場して一向宗として再興し、後には一向一揆と呼ばれるほどの武力をもって三河の徳川家康を滅亡寸前の窮地に立たせたり、守護に代わって加賀国を支配するなど教団は各地の大名を圧倒していった。一方、南蛮貿易に伴ってザビエル、ルイス・フロイスをはじめとする宣教師が来日してキリスト教が伝来し、豊後の大友宗麟、肥前の大村純忠、長崎の有馬晴信などのキリシタン大名や織田信長などの権力者の庇護の下、安土桃山時代(織豊時代)から江戸時代初期にかけて九州北部や京、大坂など各地で信者を増やしていった。
琉球
琉球
現在日本国内に含まれる沖縄(琉球)は江戸時代初期(1609年)に島津氏に侵攻されて府庸国とされるまで別の国であった。室町時代中期にあたる1429年に沖縄本島が統一され琉球王国が成立。日本や当時の中国王朝である明、朝鮮王朝(李氏朝鮮)などとの海上交易で栄えた。
衣服
衣服
武士
男性の礼装は鎌倉時代の水干に代わって直垂(ひれたれ)となる。礼装となったので公家装束のように広袖となり、袖丈も長くなった。飾りも増え、胸を閉じる胸紐や縫い合わせ部分を閉じる菊綴結に絹の丸組紐が使われる。大紋も直垂の一種だが、裏地を省略し、大きな家紋を染抜いている。礼装での被り物は侍烏帽子が一般、上級武士は風折烏帽子も用い、公家との会合では公家の流儀に合わせて立烏帽子も使ったらしい。成人男子にとっては烏帽子はシンボルであり、日常でも外すことはなかったが、月代を剃るようになった戦国時代からは、儀式を除いて被らない武士が多くなってきた。日常着にも直垂が使われるが、素襖(すおう)と呼ばれる。これも裏地がなく、直垂と大紋と異なって胸紐や菊綴結に細い革紐を用いる。袴の裾には括り紐を用いない切袴が一般化した。
女性の礼装は、小袖の上に華やかな柄の打掛という小袖を重ねた打掛となり、だいぶ簡略化されて動きやすくなった。打掛には明伝来の高級浮織物(唐織)あるいはその技術を元に日本で織られた高級品が用いられた。下着の小袖は間着と呼ばれ、通常は白無地を数枚重ねるが、間に柄物の生地を挟むお洒落もあったらしい。重ねた間着は細帯で締める。普段の外出には被衣(かづき)という柄物の小袖を頭から被る服装が用いられた。
庶民
男女とも動きやすい小袖を着ていた。外出では足に脚絆と草鞋、作業用には手に手甲をつけていた。下には長めの小袖の着流しや短めの小袖に四幅袴といったスタイルがあった。夏の労働には袖なしの服に下は褌のみというのもあった。烏帽子を被る風習は武士に先立って廃れていったらしい。
概要
概要
基本的には「室町幕府が存在していた時代」のこと。
1336年に足利尊氏が建武式目を制定し事実上後に室町幕府と呼ばれる自らの武家政権を樹立(征夷大将軍叙任は1338年)したときから、1573年に足利義昭が京都を追放されて中央政権としての室町幕府が消滅するまでを指すことが一般的である。
概ね、この頃は日本の武家文化が発展していった時期として知られるが、実際にはこのうち1392年の南北朝合一までは南北朝時代、1467年の応仁の乱勃発または1493年の明応の政変以降は戦国時代として、長く多くの戦乱が相次いだ動乱の時期である。
南北朝時代と戦国時代の合間の約70~100年間を狭義の室町時代とする場合もある。南北朝時代、戦国時代についてはそれぞれの記事も参照のこと。
あまりにややこしいため、知名度が高い戦国時代を除けば日本史の授業で苦手な人が多いと言われる。
この時代のpixivイラストとしては、時代の終わりと始まり、すなわち主に「戦国」タグが使われる戦国時代、次いで主に「南北朝」タグが使われる南北朝時代が多い。
経済
経済
水力の自転揚水車が発達し、用水路が開削されるなどの成果により山間部の開墾が進む。これらと肥灰と呼ばれる草木灰の肥料活用等によって、米と麦との二毛作や米・麦・蕎麦の三毛作すら広まっていった(今谷明『日本国王と土民』)。村請(むらうけ)制と呼ばれる、年貢等の収納を領主に代わって村が代行するシステムが広まり、その維持のために村は家役と呼ばれる住民税の徴収権も得る。かくして農民の経営実態を把握する権限は領主から惣と呼ばれた自治村に移った(坂田聡「百姓の家と村」『村の戦争と平和』)。坂田によると惣では、有力な農民は各々本家と分家の家長(座衆と呼ばれた)を集めた宮座という自治機構を構成し、また村の若者からなる若衆という武力集団を有した。同じく坂田によれば、村は村周辺の用水や山野の森林資源を管理し、それらを巡って近隣の村としばしば武力衝突した。このような武力衝突には「相当の儀(やられた分だけやり返す)」で収める慣習があったが、報復合戦によるエスカレートの危険をはらみ、その回避が深刻な課題になっていた(稲葉継陽「戦国から泰平の世へ」『村の戦争と平和』)。また、村は村内の殺人や盗みについて一定の刑事裁判権を有し、近隣の村との争いでは他の村による仲裁と守護や幕府に訴えての仲裁とが併用されていたらしい(榎原雅治「むすびあう地域」『村の戦争と平和』)。榎原によれば、これらの裁判では湯起請(ゆぎしょう、双方が熱湯から石を取り出して火傷が酷いと神の意に沿わないと見なされて敗訴)のような神裁がよく用いられたらしい。(村の鎮守での湯起請ばかりか、守護の法廷や幕府ですら)このような裁判が行われた目的は、真相の究明ではなく、真相を巡る疑心暗鬼を防ぎ社会の安定を維持することにあったとのこと。
鋳物工が諸国に定住し各地で農具を自給できるようになる等地方に住む職人の増加、また定期市に常住する商人も増えるなどして地方都市が増加し、特に領主や大名の城下町が発展した(笹本正治『異郷を結ぶ商人と職人』)。また戦国時代には南蛮貿易も始まり、日本がアジア以外の世界とも繋がりをもつようになった。ポルトガルから種子島に鉄砲が伝来すると、またたく間に堺や根来で生産が本格化し、日本は世界有数の銃武装国家となった。農業・工業の生産能力の向上につれて流通・交易も増大し座(当時の流通業界団体)が活発に活動して諸国の特産品を全国に流通させ、後期にはそれまでにない自治能力・固有の武力を持つ大規模な商業都市(堺・博多など)が出現するに至った。鎌倉時代に続いて貨幣の公的鋳造はなく、幕府等の明との貿易によって永楽通宝を代表とする銭の輸入がなされ私鋳銭も多く作られたらしい。貨幣経済の進展と遠隔地交易の発達によって為替が普及し、また銀行業・質屋を営む土倉が経済力を持つなど金融業の発達も見られた(笹本、同書)。
文化
文化
文学では室町時代初期以来連歌が栄え、二条良基らが『莬玖波集』を編纂して、足利尊氏や足利義詮、佐々木道誉といった武家も多く歌を詠んでいる。御伽草子と呼ばれた絵入りのおとぎ話があらわれ、『一寸法師』や『浦島太郎』はこのころ成立したようだ。演劇では、足利義満の時代の北山文化を中心に観阿弥・世阿弥らによって能(能楽)、狂言が発達した。茶道も出現したが、当初は「闘茶」と呼ばれる茶の産地を当てる賭け事であり、バサラな遊びであった。足利義政の東山文化のころに賭けを離れた茶道が成立し、後に武野紹鴎、千利休らによって「侘び茶」が大成する。東山文化には他に雪舟などの水墨画、香木の繊細な香りを鑑賞する香道、また現在の日本家屋のベースとなる書院造が発達している。
仏教では、幕府の保護によって禅宗が栄え、鎌倉五山・京都五山と呼ばれる寺格制度によって多くの寺院が建てられ、禅の精神に基づく優れた庭園が造られた。延暦寺や岩清水八幡宮のような伝統寺社、禅宗等の新興寺社とも座や土倉を運営・保護し門前町を作らせるなど商工業の保護者としても活躍している。しかし権力の保護や商工業での活動によって腐敗する悪僧や神人も見られ、一休宗純のように仏教の腐敗を警告する活動も現れた。当時衰退していた浄土真宗に本願寺第8世の蓮如が登場して一向宗として再興し、後には一向一揆と呼ばれるほどの武力をもって三河の徳川家康を滅亡寸前の窮地に立たせたり、守護に代わって加賀国を支配するなど教団は各地の大名を圧倒していった。一方、南蛮貿易に伴ってザビエル、ルイス・フロイスをはじめとする宣教師が来日してキリスト教が伝来し、豊後の大友宗麟、肥前の大村純忠、長崎の有馬晴信などのキリシタン大名や織田信長などの権力者の庇護の下、安土桃山時代(織豊時代)から江戸時代初期にかけて九州北部や京、大坂など各地で信者を増やしていった。
琉球
琉球
現在日本国内に含まれる沖縄(琉球)は江戸時代初期(1609年)に島津氏に侵攻されて府庸国とされるまで別の国であった。室町時代中期にあたる1429年に沖縄本島が統一され琉球王国が成立。日本や当時の中国王朝である明、朝鮮王朝(李氏朝鮮)などとの海上交易で栄えた。
衣服
衣服
武士
男性の礼装は鎌倉時代の水干に代わって直垂(ひれたれ)となる。礼装となったので公家装束のように広袖となり、袖丈も長くなった。飾りも増え、胸を閉じる胸紐や縫い合わせ部分を閉じる菊綴結に絹の丸組紐が使われる。大紋も直垂の一種だが、裏地を省略し、大きな家紋を染抜いている。礼装での被り物は侍烏帽子が一般、上級武士は風折烏帽子も用い、公家との会合では公家の流儀に合わせて立烏帽子も使ったらしい。成人男子にとっては烏帽子はシンボルであり、日常でも外すことはなかったが、月代を剃るようになった戦国時代からは、儀式を除いて被らない武士が多くなってきた。日常着にも直垂が使われるが、素襖(すおう)と呼ばれる。これも裏地がなく、直垂と大紋と異なって胸紐や菊綴結に細い革紐を用いる。袴の裾には括り紐を用いない切袴が一般化した。
女性の礼装は、小袖の上に華やかな柄の打掛という小袖を重ねた打掛となり、だいぶ簡略化されて動きやすくなった。打掛には明伝来の高級浮織物(唐織)あるいはその技術を元に日本で織られた高級品が用いられた。下着の小袖は間着と呼ばれ、通常は白無地を数枚重ねるが、間に柄物の生地を挟むお洒落もあったらしい。重ねた間着は細帯で締める。普段の外出には被衣(かづき)という柄物の小袖を頭から被る服装が用いられた。
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