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畠山義就

はたけやまよしひろ

畠山義就とは、近畿地方の武将・守護大名。室町時代後期に発生した畠山氏の家督争いの当事者であり、生涯に亘って従兄弟の弥三郎・政長兄弟と対立、応仁・文明の乱を経て河内・大和を実効支配した。(1437年?-1491年)
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概要

室町時代後期に活躍した武将の一人で、河内畠山氏より分裂した畠山総州家の家祖ともなった。

妾腹の庶子でありながらも、父である畠山持国の後継として召し出されたが、この事が家中の分裂を招き家督争いが勃発。一時は家督を相続したものの室町幕府との関係悪化により、対立する畠山政長に家督を奪われ都落ちを余儀なくされるが、その後も朝敵の汚名を背負いながらも河内・大和にて勢力を保持し、政長派と幾度となく干戈を交え続けた。

また当時の室町幕府内部の権力闘争などに端を発した応仁・文明の乱では西軍に属し、大内政弘らと共にその主力として活躍した。この大乱の終結後は再び河内・大和へ下り、当地の国人らの支援の下で本来の河内守護であった政長の攻撃を退け、両国の実効支配も確立している。


幼い頃からの家督争いでその立場も流動的であった事から、義就は基本的に幕府権力に依拠する事無く、独立独歩・実力主義でその勢力を拡大する姿勢を通し続けた。そうした側面、それに持ち前の軍事的な才覚などに起因した名望の高さは、応仁・文明の乱後の河内での戦いにおいても、当地の国人らがこぞって参集するという形でも表れており、この事から義就を「戦国大名の先駆け」と見る向きも存在する。


名前の「義就」については長らく「よしなり」と読まれており、1994年放送のNHK大河ドラマ花の乱』においてもこちらが採用されているが、近年では呉座勇一著『応仁の乱』などを始め、「よしひろ」と読む傾向が強まっている。


生涯

家督争い

永享9年(1437年)頃、畠山氏の当主・畠山持国の子として生まれる。幼名は次郎。母親が側室であった上に、その側室も諸侯の間を転々とし幾人も子を設けた、いわば遊女のような存在であり、「皮屋の子で東寺の僧と従兄弟である」と記した史料などもあるように実子でないとの疑いもあったため、当初は嫡子とはされず僧籍に入る事が決められていた。

ところが文安5年(1448年)、理由は不明だが父・持国は後継と定めていた異母弟の持富を廃嫡し、12歳の次郎を召し出し新たな家督後継者と定めたのである。幕府からの裁可も得た事で次郎は元服し、将軍・足利義成(義政)より偏諱を受け名を「義夏」と改めた。


しかし前述したような出自に対する不満から、一部の家臣は持富の子である弥三郎(政久)を後継者に擁立、家中は義就派と弥三郎派に二分される格好となった。元々足利義教の治世下で持国は一度当主の座を追われ、その後復帰した際に異母弟の持永との抗争に及び、再び当主に返り咲いたという経緯があったため、家臣団の統率も盤石でなかったのもまた、家中分裂の要因の一つとしてあったのである。

この家督争いは遂に武力衝突にまで発展、当初は弥三郎派の家臣が追放されるなど義就派優勢に事が進んでいたが、ここで思わぬ横槍が入る。幕府有力者の細川勝元山名宗全、大和国人の筒井氏などの介入である。弥三郎派の焼き討ちに遭い、形勢不利と見た義夏はひとまず伊賀に逃れ、持国も隠居を余儀なくされるが、直後に将軍・義政の不興を買い宗全もまた隠居・領国下向に追い込まれた事で、義夏も再び上洛し後ろ盾を失った弥三郎を追い落とす事に成功した。時に享徳3年(1454年)12月の事である。

翌年には名を「義就」と再度改めると共に右衛門佐に叙任。そして隠居の身であった持国の死に伴い正式に家督を継承した。これ以降、将軍の意向を後ろ盾として河内・大和に進軍、当地の弥三郎派の国人を追い落としその立場を盤石なものとしつつあった。


転落と再起

しかしそうした義就優位な状況も長続きはしなかった。そもそも将軍・義政が義就に肩入れしたのは、守護大名の後継者争いに介入しその勢力を抑える事で、将軍権力を伸長させるという狙いがあったに過ぎず、必ずしも義就にとっての心強い味方という訳ではなかったのである。

康正3年(1457年)の大和での騒乱の折、義政の上意と偽って家臣を派遣したのが義政の逆鱗に触れ、所領を没収されるという事態が発生した。これ以降、義就派の大和国人の所領横領や、細川勝元が領していた山城木津への攻撃なども問題となり、義就に対する義政の信頼は急速に失われていく事となる。

これを好機と見たのが逼塞状態にあった弥三郎と、それを支援する筒井氏や成身院光宣ら大和国人であった。弥三郎は長禄3年(1459年)に死去するが、弥三郎派はその弟の政長を擁立し、細川勝元の支援も得てなおも義就派との対立姿勢を維持した。同年には、義就を支援していた幕府の有力者・今参局も誅殺され、義就の立場はますます悪化の一途を辿っていく。


翌長禄4年(1460年)、紀伊における根来寺と畠山軍との抗争の最中に義就は猶子である政国への家督移譲を幕府より命じられ、程なく河内へと落ちる事となった。これは義就派と政長派の双方を立てる折衷案と見られているが、義就がこの措置に不服を示した事により、却って将軍・義政が政長の家督継承を認めるという裏目の結果を招いてしまった。

悪い事は重なるもので、朝廷からも義就に対する治罰の綸旨まで出されてしまい、朝敵の汚名を被った義就は南河内の嶽山城に籠城、政長や細川氏を中心とした討伐軍を2年以上に亘って迎え撃つが、最終的には成身院光宣の計略により陥落、義就は高野山を経てさらに吉野に逃れ、しばしの間当地で逼塞の日々を送る事となる。

嶽山城陥落から半年余り後の寛正4年(1463年)11月には、日野重子(義政生母)の病没に伴う大赦で赦免されるも、依然として畠山氏の家督は政長の握るところであり、義就は越智氏など大和国人の支援を受けて引き続き吉野での潜伏生活を続けた。


さてこの頃の幕府内では、将軍後継を巡って次の3つの勢力による対立が先鋭化していた。

しかも同時期には、管領家の一つである斯波氏でも家督争いが発生しており、この2つの問題を中心として政局は混迷を極めつつあった。そのような中で義就は、宗全と姻戚関係にあった斯波義廉や、これと対立する将軍側近勢力(斯波氏の家督争いにおいて、義廉の対抗馬であった斯波義敏を支援していた)からの取り込み工作を受けるようにもなる。

事態が大きく動き出したのは文正元年(1466年)7月、文正の政変が発生した辺りからである。この翌月に義就は再挙し、吉野を発って上洛の途につくのだが、これについては従来の通説では、山名派による軍事活動に呼応してのものだと言われていた一方、近年では将軍側近勢力と連携し、中央政界への復帰を視野に入れての行動であるとの指摘もなされている。

しかし後者の路線は、宗全と勝元の協力体制の確立による貞親ら将軍側近の失脚により水泡に帰し、已む無く義就はひとまず上洛を断念し大和・河内での勢力拡大に努めるようになる。大和における義就派と政長派の抗争は一旦は和睦という形で収まるが、その後宗全・勝元の協力体制が政治路線の違いから瓦解するに至って、義就は12月に再度上洛の途につき山名派の支援の下、将軍・義政に軍事的優位をアピールする事で畠山邸の明け渡しと、政長の管領職辞任を実現させるに至った。


応仁・文明の乱

義就の上洛によって政長は失脚したが、政長やそれを支援する細川派の勢力がこれであっさり引き下がる訳でもなく、翌文正2年(1467年)正月には両陣営の軍が京都北部の上御霊社にて武力衝突に及び、義就もこれに出陣し政長を撃ち破った(御霊合戦)。かくして山名派が政権を掌握する形となったが、年号代わって応仁元年(1467年)5月に入ると、諸国で細川派による軍事行動が活発化し、同月末には洛中でも武力衝突が発生。これが世に言う「応仁・文明の乱」の勃発である。

この大乱において義就は内裏や東寺に陣を構え、宗全を首魁とする西軍に属する形で、政長の属する東軍と幾度となく干戈を交えた。義就が参戦した主な合戦としては10月の相国寺の戦い、翌年の骨皮道賢(東軍の足軽大将)の討伐などが挙げられ、さらに京都だけでなく河内や大和それに摂津などを転戦し、山城では西岡を占拠し実力支配を行ってもいる。


しかし、こうした義就の奮戦とは裏腹に戦力の拮抗や各陣地の城塞化、さらには参戦諸将の利害の違いに端を発した和睦交渉の難航などにより、戦局は膠着したまま長期化の一途を辿る事となる。文明4年(1472年)からは両陣営のトップである宗全・勝元の間で和睦交渉が持たれるようになったが、和睦によるメリットが何一つない義就はこの動きに反対し、その後も徹底抗戦の構えを示し続けた。

とはいえ翌年の宗全・勝元の相次ぐ病没を経ての山名・細川間での単独講和を経て、徐々にではあるが終戦工作も本格化していき、義就と並んで西軍内での主戦派であった大内政弘が降伏するに至り、義就もまた文明9年(1477年)9月に西陣を引き払い、河内へ下るという選択を取った。

それから1カ月余り後に東西両軍間での講和が成立、10年余りに亘る大乱もようやく終結を迎えるが、義就と政長の抗争はここに新たな局面を迎えようとしていた。


河内・大和の実効支配

義就による河内での軍事行動は、早くも文明9年10月より本格化した。同月には政長派の河内守護代・遊佐氏を追放し河内を制圧(若江城の戦い)。さらに大和では越智氏・古市氏ら義就派国人も政長派の国人を駆逐し、ここに義就は河内・大和の実効支配を果たす事となる。名目上は依然として政長が河内守護の座にあったが、最早河内・大和は幕府権力・統制の及ぶところではなく、事実上の義就の独立王国として成立する状況にあった。


その後数年間は目立った衝突も見られなかったものの、文明14年(1482年)に入ると政長と細川政元を中心とした幕府軍が再び義就の討伐に乗り出した。しかしここで政元は河内にあった自領と、領国であった摂津の畠山領との交換を条件に単独で和睦。これにより梯子を外される格好となった政長は単独で義就と争わざるを得なくなり、翌年に入ると河内に残存していた政長方勢力も駆逐されると共に、政長が守護を務めていた山城にまで戦場が拡大、以降2年間に亘って当地での両者の戦いが続く事となった。

この山城国内での抗争はその後意外な展開を見せる。両畠山氏の抗争によって被害を被っていた、南山城の主要な国人衆が一揆を成立させた(山城国一揆)事により、両軍とも山城国内からの撤退を要求されたのである。山城国人の思わぬ抵抗に、已む無く義就も河内へ引き上げざるを得ず、南山城での影響力を喪失する結果となった。しかし南山城からの撤退は義就にとって損失だけでなく、応仁・文明の乱以来20年に亘って被って来た罪を幕府より赦されるという、プラスな結果ももたらした。


山城から両軍が撤退した後も、政長による河内奪還の動きはあったもののこれを撃破し、義就による河内・大和領国の実効支配は継続した。そんな義就が病を得て、若江城(高屋城とも)で54年の生涯を閉じたのは延徳2年12月12日(1491年1月21日)の事であった。戦に次ぐ戦に明け暮れた波乱の人生や、宿敵・政長が後に明応の政変にて非業の死を遂げた事に比べると、その死は意外なほどに穏やかなものであった。

義就には前出の政国の他、実子として長男の修羅、そして次男の基家(義豊)がいたが、前二者はこの頃までに死没しており、義就に端を発した畠山総州家の家督は基家が継承。その後も政長やその遺児である尚順(畠山尾州家)との間で、畠山氏の内紛はなおも継続する事となる。


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足利義政

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