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源平藤橘とは、源氏平氏藤原氏橘氏の四つをまとめた言い方である。

これらは主に武家において祖先がこれら名家からの人物であるということを表明される為に多く誇示する際に用いられた。そのため、権威付けのため系図を改鋳しこの子孫とする武家も少なくなかった。


源平藤橘

1.源

臣籍降下された清和帝の孫”経基王”こそが清和源氏の祖。

経基王は平将門の謀反朝廷に告げたことで従五位下に叙され、藤原純友の乱を鎮圧し為、軍事貴族として発展した。


1156年の保元の乱で崇徳院についた源為義と後白河帝についた源義朝が争い、源義朝が勝利するが、1159年平治の乱で源義朝は平清盛と戦い、敗北。

その後、源義朝の子・源頼朝は1180年から平家打倒の為に挙兵し、平家と河内源氏(清和源氏の一流)・木曾義仲を打ち破ると関東に鎌倉幕府を樹立し、三代に渡って征夷大将軍となった。

しかし、子の源頼家源実朝が連続して亡くなり、北条の治世となって源氏は政務からは除外された。

1333年に河内源氏〈源頼朝の高祖父「源義家」の三男・源義国の子孫〉である足利尊氏は同じく三男の子孫である新田義貞と共に、北条治世となった鎌倉幕府を倒幕し、1338年には征夷大将軍になって足利幕府を樹立していった。

後に足利幕府で実権を握るようになる細川政元の細川氏は足利一門の明確な清和源氏であり、三好長慶で有名な三好氏も信濃源氏(信濃国の清和源氏)である。


1573年織田氏が足利義昭を京都から追放し、足利幕府を滅ぼしたが、1583年に自称清和源氏土岐氏の一流・明智氏の明智光秀によって滅ぼされた。

1598年に太閤・豊臣秀吉が亡くなると徳川家康が豊臣政権の実権を握り、後に征夷大将軍と成って徳川幕府を樹立。

徳川氏は松平氏の一流であり、松平氏の系譜では清和源氏新田氏の一流であるとされている(実際は賀茂氏、もしくは三河鈴木氏と推測される)。

また、徳川幕府の倒幕した島津久光で有名な薩摩藩島津氏は『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪の住吉大社境内で島津忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている(実際は始皇帝の末裔とする渡来人の秦氏の子孫・惟宗氏と推測される)。


2.平

臣籍降下された桓武帝の子”葛原親王”こそが桓武平氏の始祖。

武家平氏の祖は、上総介になって関東土着した高望王であり、

その〈高望王の長男・平国香の子孫〉平貞盛が、〈三男・平良将の子孫〉平将門の反乱を鎮圧し、従五位上の軍事貴族として発展していくと、

平貞盛の四男・平維衡の子孫である伊勢平氏の平清盛は平治の乱の後、その強大な武力と藤原氏を真似た皇室との婚姻関係で権力を掌握。治承三年の政変で後白河法皇を幽閉させ、平家政権を築いた。


その後源氏によって平家が滅ぼされると鎌倉幕府が樹立するが源頼朝の本妻・北条政子の、平直方を始祖と自称する(源平闘諍録では、伊勢平氏の祖・平維衡の子孫)北条氏執権の名の下に政権を奪取した。

内管領を長らく務め、実権を握った平頼綱長崎円喜などを輩出した長崎氏は桓武平氏資盛流&維衡流となっている。

やがて北条一族は足利に滅ぼされるが、後北条氏が桓武平氏維衡流を自称し、関東に君臨した。

このことは関東で源平交替思想が根付いた理由ともなっている。


天下人として覇権を握った織田信長の織田氏は平資盛の子を自称する平親真の子孫であるとし、血縁を平氏だとした。ただし元々は藤原氏を名乗っており、実際には忌部氏といわれている。


3.藤原

始祖は藤原鎌足(中臣鎌足)であり、本来は中臣氏の分派。

藤原不比等・藤原氏四家(藤原南家・藤原北家・藤原式家・藤原京家)の政治的役割によって家格を急騰させていった氏族。

平安中期には藤原氏四家のひとつ”藤原北家”が摂関政治で最盛期を築き、政治を掌握した。

平安中期貴族としては摂関政治を行った藤原良房藤原道長藤原頼通が、

武士としては平将門を撃破した藤原秀郷(俵藤太)が名高い。


しかし、院政や武家の台頭によって行政権は次第に縮小。藤原基房が平清盛に関白の職を剥奪され、奥州藤原氏が源頼朝が滅ぼされる等、藤原氏は政権の表舞台からは消えることとなり、鎌倉中期に藤原五摂家(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家)に分かれるように。摂政関白太政大臣世襲していったが、政権はない状態である。

藤原氏ではないが豊臣秀吉は、藤原五摂家のひとつ "近衛氏”の養子になった。


西園寺公望近衛文麿はもちろん、明治政府初期に実権を握った大久保利通と初代総理大臣伊藤博文の大久保氏・伊藤氏も元は藤原氏であると称している。

細川護熙麻生太郎総理らは近衛文麿や大久保利通の子孫である為、彼らも藤原氏といえるだろう。


4.橘

始祖は橘三千代(県犬養三千代)。文武帝の乳母を務めたので、後宮の実力者であった。光明皇后は藤原不比等と三千代の間の子であり、708年に三千代の功績が称えられ、「橘宿禰」の氏姓が賜与された。

葛城王は橘諸兄に、佐為王は橘佐為を称した。

特に橘諸兄は光明皇后とは異父兄妹の関係で、聖武帝に親密な信頼を受け、藤原氏にも親和的関係であり、その為に太政官最高位を貰い、自らを首班とした政権体制で、橘氏最盛期をみせた。

諸兄の子・橘奈良麻呂は孝謙帝と藤原仲麻呂を排除することを画策したが、密告を受け獄死。


平安時代では橘嘉智子が嵯峨帝に嫁ぎ、815年に檀林皇后となったことを皮切りに再び再興の兆しをみせ、822年に橘常主が約70年ぶりの橘氏公卿に。842年に檀林皇后の従兄弟にあたる橘逸勢が承和の変という藤原氏の排斥行為にあったが、檀林皇后の兄橘氏公が承和11年(844年)には右大臣に至った。

仁明天皇は嵯峨天皇と檀林皇后(橘嘉智子)の間の帝である。


平安時代中期には肥大化していく藤原氏に押されていき、次第に橘氏公卿は絶えていったが、

橘遠保は平将門/藤原純友の乱で活躍し、橘遠保の子孫を名乗る武家が出現した。

楠木正成で有名な楠木氏も橘氏とされるが、詳しい系図は不明。

室町時代から久しく橘氏公卿が現れるようになり、やがて堂上家(上級貴族)となる「薄家」が現れたが、羽柴秀吉の怒りを買い、薄家は断絶。

『日本外史』を書き、志士に影響を与えていった頼山陽は薄家の庶流の末裔といわれる。

本居宣長は源平藤原はわかるが、橘はいかなる理由で源平藤橘に入ったのかと疑問に呈していた。


その他

  • 葛城氏武内宿禰の子、葛城襲津彦(そつひこ)が葛城氏の始祖である。、襲津彦の娘の磐之媛は仁徳帝の皇后と成って、履中帝・反正帝・允恭帝を出産する等、当時の天皇家と婚姻関係を持っており、最大氏族であった。直木孝次郎は5世紀の大和政権を「大王(天皇)と葛城氏の両頭政権」と表現する。葛城襲津彦の孫・玉田宿禰は允恭帝に殺され、大伴氏・物部氏の台頭で勢いを失った。

  • 大伴氏大和朝廷の最高執政者の称号「大連」を武烈・継体・安閑・宣化・欽明まで踏襲し続け、当時最大勢力を誇っていた氏族。飛鳥~平安時代にかけても大伴長徳(大化の改新を支えた右大臣)・大伴弟麻呂(初代・征夷大将軍)等朝廷を補佐し続けた。




  • 多々良氏百済の子孫と言われ、中国覇者大内氏が自称。『新撰姓氏録』によれば「加羅の王・爾利久牟王の末裔であり、欽明帝の御世に渡来し、金の多々利・金の乎居等を献じたため、多々良公の姓を賜った」という。大内氏によれば、聖明王の第3子・琳聖太子が祖。「611年に周防国佐波郡多々良浜に漂着し、摂津国荒陵(現・大阪市天王寺区茶臼山)で聖徳太子に謁し、太子から周防国大内県を与えられ、多々良という姓を賜り、その地へ下向し本拠にした」と伝えられている。

  • 豊臣氏 ‐ 1585年に正親町帝が羽柴秀吉に下賜した姓。皇室と源平藤橘以外で直接政権を担った姓は古代の蘇我以来であり、源平藤橘にならぶ第五の新しい氏となった。主に豊臣秀吉豊臣秀次豊臣秀頼が豊臣氏の代表とされているが、政権は三代(31年)で滅び、それ以降名乗ったものも特にいない。

  • 毛利氏 ‐ 元は大江氏であり、更に元は中原氏、その前身が十市氏である。鎌倉~戦国にかけて武士として戦い、安芸毛利氏の毛利元就が大内氏から独立すると、代わって中国の覇権を握った。その後毛利輝元西軍の総大将として徳川氏と天下分け目の戦いをするが、敗北。120万石は29万石に減らされ、周防国・長門国の中国西端のみとなった。これが長州藩である。幕末になると長州藩から高杉晋作維新志士が現れると、毛利敬親は彼らに政権運営を委ねて江戸幕府を滅ぼした。明治期からは華族化。



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