ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

北条政子

ほうじょうまさこ

北条政子とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。「尼将軍」の異名を持ち、草創期の鎌倉幕府を陰日向に支え続けた。(1157年~1225年)
目次 [非表示]

概要

生没年 保元2年(1157年)~嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)

伊豆の豪族・北条時政の娘で源頼朝の妻。弟に義時などが、妹に阿波局(阿野全成室)などがいる。また、頼朝との間には、長女大姫、長男頼家、次男実朝、次女三幡(乙姫)の4人の子供がいる。


源氏の頭領から征夷大将軍となった夫を陰に日向に支え、出家後から晩年まで幕府体制の安定に献身した。


Pixivにおいては、2012年放送のNHK大河ドラマ平清盛』の登場人物(演:)としてのイラストが多数を占めている。


人物と評価

将軍の妻として大きな発言力を有した。夫の頼朝すら政子にはあまり逆らえなかったようだ。夫の死後ついに政子の権力は絶大なものとなったが、最終的には弟の義時に譲っている。


頼朝や後継者の頼家・実朝の死後、幕府の指導者になったため「尼将軍」と呼ばれた。


嫉妬深い性格であったとされる。これに関しては頼朝の女性関係のだらしなさが原因なのだが、当時は複数の異性関係を持つことは現代ほどタブーではなく、まして将軍という高い地位の者なら子孫を多く残すために側室や妾を持つことは普通であった。政子は頼朝が他の女とイチャコラするのが気に食わず、兵を遣わして、その女の家を破壊することもあったという。しかし当時は後妻打ち(うわなりうち)という、妻が愛人の家を襲撃する風習があったため、この行為は政子だけに限らない。


政務面での功績は多くの文献で高く評価されている。

歴史書『吾妻鏡』では「神功皇后の再来であり、日本の皇基を守った」と絶賛している。

政子の権勢ぶりを、慈円和尚は「女人入眼の日本国」とも評している。これに対して政子は「尼ほど深い悲しみを持った人間はいないのです」と述べている。おそらく夫や息子たちを次々失っていることへの悲しみだろう。


室町時代の古典学者である一条兼良は、政子を例に「日本は姫氏国ともいう。女が治めるべき国と言えよう」と記述している。

また同時代に成立した『神皇正統記』『難太平記』などの書物でも高く評価されている。


江戸時代になると、儒学者の間でやや厳しい評価がなされるようになる。すなわち、滅亡した婚家(源氏)を実家(北条氏)が取って代わった事が、婦人としての人倫に悖るものとされた。しかし政子自身は源氏に取って代わる意思があったとは考えられない。むしろ父・時政とは一線を画し、源氏の血を引く実朝の擁立に尽力していたようだ。


日本史三大悪女とも評されるが、応仁の乱を招いて民を虐げた日野富子、豊臣家を滅亡させた淀殿と同列に語られるのは、少々気の毒だろう。

というか、鎌倉時代の武家の正室と、室町時代以降の武家の正室の果たすべき役割というのは全く異なっており、鎌倉時代においては当主である夫に先立たれた場合、財産は嫡男ではなく正室に譲られる夫亡き後の一族を取り仕切るのは後家の務めというのが当たり前だった。そのため頼朝亡き後政子が将軍家を取り仕切ったのはある意味必然であり、それを理由に「悪女」とするのは歴史上の事柄を遡って当代の価値観で判断すると言うことに他ならないだろう。ある意味、現代におけるポリコレと似たようなものと言えるかもしれない。

なお、日野富子に関しても近年の研究では応仁の乱終結の一因となったともいわれると同時に、これまで応仁の乱の原因となった将軍後継問題もそれほど富子は関わっていないのではないかと見られているなど、後世の文献による創作などで割りを食っている点では共通している。


生涯

前半生

政子が産まれて間もなく、平治の乱で敗れた源頼朝伊豆・蛭ヶ小島に流されており、父・時政はその監視役を務めていた。政子と頼朝が恋仲となったのは時政が京に上っていた間の事であり、後からその事を知った時政は二人の結婚に強く反対するも、政子の決心は固く最終的には時政もこれを認めざるを得なかったという。時に治承元年(1177年)、政子が21歳の頃の事とされる。

この政子と頼朝の馴れ初めに関連して、次のような逸話も残されている。ある時「高い山に登り着物の袂に月と日を入れる」という不思議な夢を見たと、妹(阿波局)から伝えられた政子は「そんな尊すぎる夢は逆夢で、災いの前兆である」と答え、自分が身代わりになろうと持ちかけその夢を買い取った。この夢は実は瑞夢であり、この夢買いによって政子は頼朝と結ばれた・・・というものである。


治承4年(1180年)、頼朝が伊豆にて平家打倒の兵を挙げると、当初政子は長女・大姫と共に伊豆に留まっていたが、やがて頼朝が鎌倉入りを果たすとそれを追って当地へ移った。養和2年(1182年)には長男・万寿(頼家)を出産するなど、頼朝の御台所として幸せな日々を送る・・・はずであった。

ところがこの妊娠中、頼朝が愛妾・亀の前と度々関係を持っており、この事を知った政子は怒りのあまり部下に命じて、亀の前の居館を打ち壊させるに至ったのである。さらにこの仕打ちに激怒した頼朝がその部下を手ひどく罰し、それに対して不服を示した時政ら北条一族が伊豆へ退去するなど、この一件は思わぬ波紋を広げる結果となった。この政子の怒りは、単に持ち前の嫉妬深さに因るものだけでなく、頼朝の正室としては出自が低くその立場が不安定であった、という事も関係していると考えられている。

このような一件もあったとはいえ、終生頼朝と添い遂げ続けた政子であるが、その後も頼朝の女性関係にはしばしば気を揉まされる事が多く、頼朝も頼朝で政子を憚って半ば隠れるように女性の元へ通ったという。


その一方で、寺社への参詣や造営式への出席など、御台所としての務めもしっかりと果たしており、文治2年(1186年)に静御前源義経の愛妾)が鎌倉へ送られた際、鶴岡八幡宮にて頼朝の眼前で義経を想う歌を詠った際、激怒する頼朝に対して政子は自身の馴れ初めを引き合いに出しつつ、彼をとりなした事もある。静に対しては、後に彼女が男子を出産した際にはその助命を嘆願し、これが通らずに終わった後も何かと気にかけていたと伝えられている。

建久年間に入ると、政子と頼朝は長女・大姫の処遇について頭を悩ませるようにもなる。これより以前、源義仲との和睦に際して、大姫の婿として鎌倉に下っていた嫡男・清水義高を彼女は慕っていたが、やがて義仲が討たれると義高もまた連座して誅されてしまい、それ以来大姫は心身を害して長く床に臥せる日々が続いていた。

頼朝と政子は大姫の行く末を案じ、始め頼朝の甥に当たる一条高能との縁談、次いで後鳥羽天皇への入内を打診している。しかしいずれも不調に終わる中、大姫は政子たちの尽力の甲斐なく、建久8年(1197年)に20歳の若さでこの世を去ってしまった。この時政子も、娘の後を追って死のうと思い詰めるほどの悲しみを示している。


尼将軍

大姫逝去の翌々年、建久10年(1199年)正月に頼朝が急死すると、政子は出家し尼御台と呼ばれるようになり、家督と将軍職を継いだ長男・頼家を陰ながら支える立場となった。

しかし頼家の独裁、そして乱行に対して御家人たちからは次第に不満や反発の声が上がるようになり、政子も頼家と安達景盛との軋轢に際して両者を仲介し、頼家に対して訓戒を与え事態を収拾した事もあった。また一方で、この頃の幕府内では頼家との婚姻関係を通して、有力御家人の一人である比企能員とその一族が俄かに権勢を増しつつあり、この状況は北条氏にとって到底座視出来るものではなかった。

結果、政子と父・時政は頼家が病で危篤に陥ったのを機に、弟の実朝と嫡男・一幡による分割統治を決定。のち時政や義時らはライバル比企一族を策により討滅し一幡とその生母の若狭局を討った(比企の乱)。さらに病より奇跡的に快復した頼家をも出家に追い込み、伊豆の修善寺へ押し込めるという非情な手段に打って出たのである。


政子の非情さは身内にも向けられた。頼家亡き後、新たに将軍職に就いた実朝の治世下で父・時政は初代執権に就任し権勢を振るっていたが、やがて時政が後妻・牧の方と結託して実朝を廃し政権を手中に収めようとすると、政子は弟の義時らと共にこの謀略を阻止し、二人を鎌倉より追放せしめている(牧氏事件)。

さて、兄・頼家とは対照的に実朝は穏和な文人肌であり、将軍就任後は朝廷や公家との融和政策を推し進めていたが、一方で御家人たちはこの政策が自分達の利益を損ねかねないものとして、不満を募らせるばかりであった。また病弱がちな実朝には跡継ぎが出来ず、鎌倉政権の行く末にも俄かに暗雲が立ち込めつつあった。

こうした状況は政子も憂慮するところであり、畿内に上って寺社へ実朝の平癒を祈願したり、実朝亡き後の将軍候補として後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎える事を、朝廷に対して打診したりもしている。しかしこうした政子の取り組みも実を結ばぬうちに、建保7年(1219年)に実朝は鶴岡八幡宮にて甥の公暁(頼家の次男)に暗殺されるという、悲劇的な最期を遂げる事となるのである。


実朝の横死は、将軍の跡継ぎを巡って幕府と朝廷との軋轢を引き起こす引鉄ともなった。両者の折衝の末に関東申次・九条道家の子で、頼朝の同母妹・坊門姫の血を引く三寅(後の九条(藤原)頼経)が新将軍として鎌倉へ下向、政子がその後見に当たる事となるが、かねてから幕府と朝廷による二頭政治が続いていた事への不満を朝廷が抱いていたのに加え、前述した皇族将軍を迎える案を巡り対立が生じた事で、両者の緊張は次第に高まりを見せつつあった。

承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は遂に諸国の兵を集め、「2代執権北条義時を討て」という院宣を発した。世に言う承久の乱の始まりである。この朝廷側の動きに対し、政子は動揺する御家人たちを纏めると共に、大江広元の献策による京への積極的な出撃策を採決し、瞬く間に朝廷側の軍勢を打ち破るに至っている。この時の逸話として、政子は鎌倉の武士たちを前に「頼朝公の恩は海よりも深く、山よりも高し」と演説し、浮足立っていた御家人たちの心を動かした、とも伝わっている。


承久の乱での勝利により、鎌倉幕府は朝廷を抑えて国政を主導するようになり、幕府を主導する北条氏による執権政治も盤石なものとなった。乱より3年後の貞応3年(1224年)に弟・義時が没すると、その長男である泰時が3代執権の座に就いた。この時、義時の後妻・伊賀の方や実家の伊賀氏により伊賀氏腹である五男の政村を執権に擁立し伊賀の方の娘婿である一条実雅を将軍に擁立しようという動きがあり、この時も政子はいち早くその企みを察知し、未然に防いでいる(伊賀氏の変)。

ところがその一方で、泰時はこの陰謀を事実ではないと否定しており、伊賀の方を修善寺へ追放し実雅の処分を朝廷に委ねたとのの、政村や伊賀光宗らに対しては比較的穏当な処置が取られた。幕府体制の安定のため、あまり厳重な処罰に踏み切れなかったという事情もあるが、前述の牧氏事件と同様の構図でもある事から、この時期すでに将軍家だけでなく北条氏とも関係が希薄となっていた政子が、影響力の回復を企図して伊賀氏潰しに乗り出した、即ち政子の生涯最後の謀略ではないかとの見方も呈されている。


政子が病を得て69年の生涯を閉じたのは、それから間もない嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)の事であった。将軍御台所としてまた尼将軍として、時にままならぬ事も多かったその生涯ではあるが、政子や義時が盤石のものとした鎌倉幕府と執権政治は、その後実に1世紀あまりの長きに亘って続いていく事となった。



余談

政子の子供たちはいずれも悲惨な末路をたどっている。

  • 大姫

許婚の清水義高を殺されたことで身体と心を病み、20歳という若さで病死。

  • 頼家

頼朝死後第二代将軍になるが、頼家の後ろ盾である比企氏と比企氏を快く思わない北条氏の対立によって、将軍職を剥奪されて寺に幽閉された後暗殺される。

  • 三幡(乙姫)

死んだ姉(大姫)の代わりに入内が画策され、女御の称を与えられて正式の入内を待つ最中に病死。これは朝廷側の陰謀と言う説もある。

  • 実朝

頼家の死後、第三代将軍となるが、頼家の子公暁に暗殺された。


息子たちの死には政子自身が関わると言う説もあり、政子が鎌倉幕府を盤石にしようと尽力したのは、犠牲になった子供たちへの償いだという説もある。


フィクションにおける北条政子

NHKドラマ

「政子」名義で登場。

本作では物語後半の主役として位置付けられている。後年の話になるが演者ゆえに政子に「極妻」のイメージが付くことになる。

初登場時の野生児ぶりはある意味衝撃的だった。

弟の義時が主人公である関係で主要人物として登場している。同作の政子はステレオタイプな「悪女」や「女傑」ではなく、愛情深く、時にチャーミングであり、時に嫉妬に駆られるも、御家人たちとの間も取り持ち鎌倉の安泰を担う「御台所」たれと努める女性として描かれた。あと演者の熱演により目力がすごいともっぱらの評判になった。


民放ドラマ

ゲーム

北条政子

蒼勢力、平安の武将として実装。

1.5コスト武力5、知力8の弓兵で特技「気合」を持っており、コスト比として並みの武力だが気合による見た目以上の耐久力と高めの知力による妨害耐性を持つ。


計略は士気6の「尼将軍の魂陣」。

蒼勢力の味方の武力を+3する陣形でそのままの効果ではとても弱い。

しかし、この計略の神髄は2.5コスト以上の味方が撤退しているとき、武力+7&通常の全体強化の2倍近い効果陣形を持っていること。


手数は不足するが、武力の暴力と長めの効果時間で相手を蹂躙する強カードの一角。


「深き悲しみを越え、私は再び戦おう」


関連タグ

鎌倉幕府 北条氏

吾妻鏡  鬼嫁

関連記事

親記事

鎌倉幕府 かまくらばくふ

子記事

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

pixivに投稿された小説 pixivで小説を見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 211803

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました