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プロフィール

アルファベット表記Mirco Demuro
生年月日1979年1月11日
出身地イタリアローマ
居住地東京都
所属栗東トレーニングセンター・フリー(2015年~現在)
血液型A型
身長156cm
体重52kg
家族構成妻、長女・次女(前妻との子供)、長男・三女(後妻との子供)
通算勝利数(2023年末時点)1,259勝(JRA)
使用言語イタリア語(母国語)、日本語英語

弟のクリスチャン・デムーロ騎手であり、また父ジョヴァンニも元騎手、姉で調教師のパメラも元騎手であった。


経歴

1994年、15歳で騎手免許を取得。1995年にはイタリアの見習騎手リーディングに、1997年から2000年までは4年連続でイタリアのリーディングジョッキーに輝いた。

1999年に初来日。この当時から騎乗センスは非常に評判が良く日本の関係者からの厚い信頼を得ていた。

2003年にはネオユニヴァース皐月賞日本ダービーの二冠を達成。外国人騎手による初の日本ダービー制覇を成し遂げる。

観客から「ミルコ」コールが送られたこの時について、後に「サッカーのナカタになったような錯覚に陥った」という感想を述べている。

2011年にはそのネオユニヴァース産駒であるヴィクトワールピサドバイワールドカップを優勝し、日本馬によるドバイワールドカップ初優勝を成し遂げた。


フラッシュの勝利を待ってた。


天覧競馬となった2012年天皇賞(秋)ではエイシンフラッシュで優勝。

下馬して天皇皇后両陛下に恭しく敬礼するポーズ姿は歓声を呼んだ。

(ただし、本来は故障などのやむを得ない場合を除いて検量室まで下馬してはいけないという決まりであったが、JRAは意を汲んでか咎めることはなかった。ただ、本人曰く「裁決委員の人すごく怒ってた」とのこと。)


ドゥラメンテ


2014年3月30日、コパノリチャードに騎乗し高松宮記念(GⅠ)で1着となるが、「飛行機ポーズ」で入線したため過怠金が課された。


2015年にはJRAの騎手試験に合格し、同時に合格したクリストフ・ルメールと共に通年免許を取得。JRA初の通年免許持ちの外国人騎手の一人となった。

同年、ドゥラメンテで皐月賞と日本ダービーの二冠を12年ぶりに達成している。


2020年から、所属は栗東のまま、活動拠点を美浦に移した。


人物像

とにかく「和」を好み、通年免許取得後は京都に住み、家に和室を3つ置き、日本食も食し、神社にもよく参拝する。誰が言ったかたまたまローマに生まれ落ちただけのイタリア系関西人、でも関西人は納豆食べないって!

競馬開催前日に全騎手が入室を義務付けられている調整ルームでも和室を選んで泊まり、納豆を持ち込んで食べている(同期のルメールは納豆が苦手)。

また同じ大豆製品の豆腐も好きらしく、テレビの老舗豆腐屋の取材の際に一般人として出てきたこともある(撮影スタッフは誰だか気付いていなかった/知らなかった模様)。

(6;24~)

新型コロナウイルス感染拡大防止の為、マスクを着用した状態とは言え、まるでテレビ番組に一般人として出演しながら誰もその正体に気づかなかったどこぞの気性難駆け込み寺のようである。


ちなみに、本人は納豆が好きだが、二人の娘は関西(栗東トレセンは滋賀県)暮らしが長かったせいか納豆嫌い

情熱大陸の取材では、しきりに娘に納豆をすすめるデムーロに対し、「(納豆の)箱を食べるか中身を食べるかって聞かれたら箱を食べるわ」というパワーワードを残している。


少し茶目っ気のある面もあり、ウイニングランなどでは両手を広げる「飛行機ポーズ」をたびたび披露。ただし、2007年12月2日の中日新聞杯(サンライズマックスに騎乗)ではゴール前にやって制裁を受けた


余談だが、この飛行機ポーズの元ネタはかつてセリエAのサッカーチーム、ASローマにて活躍した元イタリア代表FWのヴィンチェンツォ・モンテッラのゴールパフォーマンスである。

デニーロ本人は生粋のロマニスタ(ASローマのファンの愛称)であると公言しており、中でもこのモンテッラのゴールパフォーマーがお気に入りとのこと。前述のミルココールに対する反応もロマニスタが故の反応だと推測できる。

ただデムーロ本人はサッカーの腕前はあまり上手くないらしく、短期免許時代に助っ人として栗東トレセンのサッカー部に参戦した際には池添謙一に「使えなかった」とバッサリ言われた(一応足は速かったとのこと)。


このようなイタリア男らしい陽気さと流暢に日本語(関西弁)を操る姿から、一部ファンからは「イタリア系関西人」の異名を頂戴している。本人もこの呼び名は認知しており、聞いた時は思わず笑ってしまったそうな。


外国人=身長が高くてガタイがいいという先入観で見てしまうせいか驚かれることもの多いが、実際体格自体は小柄(ただし、職業上体重制限もあるため騎手には小柄な人物がほとんど)。そのため、ヴィルシーナ等の馬主である大魔神佐々木と並ぶと圧倒感が半端ない。


ウマ娘プリティーダービーにはネオユニヴァース実装同時に紹介したところ、「金髪だし、いいね♡ 会ってみたい」と嬉しそうにコメント。

アニメ三期では本人と思わしきキャラクターが登場し、ドゥラメンテ勝利にはデムーロジャンプも披露。隣にいたのは田中勝春騎手と思わしきキャラクターの頭を叩いていた。


主な騎乗馬

※日本調教馬のみ記載。

※勝鞍はミルコとコンビを組んだもののみ記載。★はJRA顕彰馬

※海外重賞(G1,G2,G3)は()に開催国を記載。

交流重賞は<>内で開催競馬場を記載。


GI級競走勝利馬


ミルコと日本、ときどき父(パードレ)

家族大好きイタリア人、ミルコにもたくさんのファミリーエピソードがある。


ミルコの家系は古今東西のジョッキーに良くある競馬関係者の一族で、父も従兄弟も兄弟姉妹もジョッキーである。父ジョヴァンニは朝早くから馬の仕事に出かける為、幼いころのミルコは寝る前に居た父が起きた時に居なくて寂しがり、「どうして一緒に連れて行ってくれないの」とせがんでいたという。


「人生は難しい、簡単ではない」 それが彼の口癖のだったという。

サルデーニャ島出身で体格が小さく、怪我もあってなかなかうまくいかなかったが斤量有利からハンデ戦で活躍したという。

そんな父の背を見て育ってきたせいか、ミルコ自身もジョッキーになることを憧れた。

これには母ラファエラが反対した。医者になって欲しかったかららしいが、当人曰く「僕が勉強できなかったから諦められた」とのこと。以降母はミルコの味方になって励ます側になったという。ジョッキーデビューして間もなくの頃、仕事柄どうしても口出ししたくなる父に対して「あなたはミルコほど勝ってないじゃない!」と水を差したのだとか。

(なお、長男で諦めがついたのか次男のクリスチャンには普通に乗馬クラブに通わせていたという)


94年に騎手免許を取得し、97年には若くしてイタリア競馬界のリーディングジョッキーに輝くミルコだが、残念なことにこの頃のイタリア競馬は既に斜陽へと傾いていた。管理運営母体であるイタリアの農産業省庁、ひいては国そのものがボロボロであり、ミルコの語る所によれば賞金支払いが半年遅れることもザラだという。ミルコが国を去った後の話ではあるが、2009年には最後のG1タイトルだったデルビーイタリアーノ(イタリアダービー)がG2に降格となっている。加えて経済の国際自由化が日本よりも早く始まった欧州、ランフランコ・デットーリを始めとしてイタリアジョッキーの世界でも我先にと国外へ飛び回る時代がやってきた。


ミルコにも、国に留まるか、どこか新しい新天地を探すか、選択が迫られるようになる。

そんな時に父ジョヴァンニは、「イタリアを出たほうがいい」と諭した。

汚職と腐敗、ギャングとの癒着、経済低迷、国際競争の過酷化…課題を抱えた世紀末の祖国イタリアでこの若い才能を潰すより、父は国外に希望を見出して息子の背を押した。折しも99年のジャパンカップ、デットーリやモンジューと言った欧州競馬を代表する人馬を相手取り武豊と日本総大将スペシャルウィークが圧巻の走りで勝利した。ミルコはこれを見て、日本競馬に己の未来を掛けて見たくなった。


そして来る2003年、6月1日

第70回東京優駿…1着/ネオユニヴァース

鞍上/ミルコ・デムーロ


この年、ミルコは同馬にて皐月賞で初日本G1を取得したとはいえ、外様のジョッキーがその国のダービーを勝ったら「日本人からブーイングが飛んでくるんじゃないか」と内心恐れていたという。

だが、彼を待っていたのは熱い 熱い ミルココールだった

目いっぱいに涙を湛えながら、ミルコは馬上から相棒を指さし、「ネオユニヴァースも褒めてくれ!」と熱烈にアピールした。一目でわかった彼の人柄を日本の競馬ファンは心から讃え、受け入れ、そしてミルコも日本でジョッキーを続けることを選択した。

「イタリアのダービーを五回ぐらい勝つより嬉しい」

ミルコが残したこの言葉の意味と重さを、当時の日本競馬ファンはどれだけの人たちが理解していただろうか。

生まれ育った祖国を旅立ってたどり着いた僥倖。その端路を開いてくれたのは、他でもない父の言葉だったのかもしれない。


翌年の04年、夫婦で来日した父ジョヴァンニはダイワメジャーの追い切りを見て「凄い馬だ、絶対に勝てるぞ!」と太鼓判を押し、見事皐月賞を勝利すると「どうだ、言った通りだろう!」と大威張りしていたという。デムーロファミリーの人柄を示すエピソードだ。


しかして2020年の9月、父ジョヴァンニは喉の癌で亡くなられた。心配がるミルコを「お父さんの面倒は私たちでするから、あなたは日本で頑張ってなさい」と母ラファエラは勇気づけていたが、JRAの規定で調整ルームにおける電機通信機の持ち込みが禁じられていたため、ミルコが知ったのは天国へと旅立ってしまった後になってしまった。

不幸にもコロナ禍の最中にあったこの年、往来すれば日本とイタリア双方で二週間の隔離措置をとらねばならなくなる。さらに無理にでもイタリアに帰れば、前年の社会不安から感染に対する警戒心が高ぶっていたことから、そこで足止めされてビザが切れる事も考えられた。


背中を押してくれた父の死に目に会う事も出来ず、葬式にも出られず、この時は泣く泣く見送るしかなかった。イタリア人にしてはワインに弱く、口数も少なかった父ジョヴァンニ。怪我でジョッキーとしてはあまり大成できなかったジニ(Jovanniの愛称)。だがイタリア競馬が生んだ誇り、凱旋門賞馬トニービンの血が日本で活躍しその血脈を残していったように、今後とも父ジョヴァンニ・デムーロと息子ミルコ・デムーロの挑戦はこの日本で続いていく。


彼が困難に直面するとき、耳に残った父の言葉と共に、あの日ネオユニヴァースの背から聴いた歓声が必ず響いてくるだろう。

「人生は難しい、簡単ではない」



関連動画



2012年天皇賞(秋)での敬礼


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JRA 騎手

クリストフ・ルメール:同時にJRA通年騎乗免許合格した外国人騎手

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