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概要

JRA(日本中央競馬会)・美浦トレーニングセンター所属の騎手。日本のトップジョッキーの一人。

愛称はノリ、ノリさん、ヨコテンなど。

1968年2月23日東京都府中市生まれ。


父(横山富雄元騎手・故人)・兄(横山賀一元騎手)・長男(横山和生)・三男(横山武史)・甥(菊沢一樹)が全員JRA騎手、叔父(奥平真治元調教師)・義弟(菊沢隆徳元騎手)がJRA調教師という競馬一族の一人。


騎手としてのキャリア

1986年、日本中央競馬会競馬学校を卒業(第2期生)し、JRA騎手免許を取得。

美浦トレーニングセンターの石栗龍雄厩舎に入門する。「周りの言う通りに乗って負けても叩かれるのは俺」という考えから師匠の言う事をきかず、自分のかっこいいと思う乗り方をしていたが、デビュー6、7年後には横山がメジロライアンの件で人間的に成長したため非常に仲良くなっており、石栗厩舎解散まで在籍した。

3月1日、中山競馬場の第2レース(ダート1800m)でリキアイシンプウに騎乗しデビュー(3着)。2戦目となる第5レース(障害2700m)でグレイスハニーに騎乗するが、平地と変わらぬスピードで障害に突っ込んでいくのにビビり、タイムアウトの最下位(8着)となった(障害レースの通算戦績は12戦1勝)。


1988年、ソダカザンウインターステークス(現・東海ステークス)を勝ち、重賞初勝利。


1990年、キョウエイタップエリザベス女王杯を制してGⅠ初勝利。


1991年、メジロライアンメジロマックイーンを2着に従え宝塚記念を制し、父子2代宝塚記念制覇を達成。父・富雄が1971年に同じく宝塚記念をメジロムサシで勝利した際の2着はメジロマックイーンの祖父・メジロアサマだった。


1995年、トロットサンダーマイルチャンピオンシップを制しGⅠ3勝目。更に年間130勝で初の関東リーディングジョッキーとなる。


1996年、この年の年度代表馬サクラローレルの主戦騎手として天皇賞(春)有馬記念を制した。

トロットサンダーで安田記念に勝利した。

ホクトベガの主戦となり、その後ダート交流重賞8連勝を記録。


1997年8月、サクラローレルが凱旋門賞挑戦のためシャンティイ競馬場フランス)へ遠征。しかし、横山から武豊に乗り替わりになり、横山の弟分だった調教助手小島良太が反発し、チームの雰囲気が悪くなった。伝え聞いた横山はシャンティイを訪れ「良太、ここで豊と握手しろ!」と命じ、レースは見ずに帰国した。


1998年、セイウンスカイに騎乗し皐月賞で牡馬クラシック初勝利。菊花賞も制覇して二冠を達成。


2000年2月29日、石栗師が定年で引退したためフリーとなった。


2009年5月31日、東京優駿ロジユニヴァースで勝利。デビュー24年目、15回目のダービー挑戦であった。

8歳馬カンパニーで11月1日に天皇賞(秋)、11月22日にマイルチャンピオンシップと連勝。1969年の父・富雄もメジロタイヨウで同レースを勝っており、父子2代での天皇賞(秋)制覇を達成。


2010年、優駿牝馬サンテミリオンに騎乗し、蛯名正義騎乗のアパパネと、中央GⅠ初となる同着優勝となった。


2014年、ワンアンドオンリーで東京優駿に勝利。


2016年、アデイインザライフで新潟記念に勝利。これによって安田富男武豊藤田伸二に続く史上4人目のJRA全10場重賞制覇を達成。


2017年、アエロリットでクイーンステークスに勝利し、史上初のJRA北海道重賞8競走完全制覇を達成。


2021年、息子の横山武史エフフォーリア天皇賞(秋)を勝利。これにより、史上初の父子3代天皇賞(秋)制覇となった。


2022年、息子の横山和生タイトルホルダー天皇賞(春)を勝利。これにより秋に続き史上初の父子3代天皇賞(春)制覇となった。


横山典弘とメジロライアン

デビュー4年目の1989年、若き横山は高い素質を持つメジロ牧場の期待馬メジロライアンを任された。あまりに良い馬を任されたため、「(三冠)全部勝てる」と思い、事あるごとに「ライアンが一番強い」と発言した。

当時の横山は騎乗技術を認められていたものの、ヤンチャで生意気なところがあり、問題児と呼ばれていた。


しかし、クラシック本番ではハクタイセイアイネスフウジンメジロマックイーン、有馬記念ではオグリキャップに敗れ、善戦はするが強豪馬相手には勝ちきれないレースが続いた。

1991年初戦の中山記念で騎乗ミスからユキノサンライズに敗れたため本気で厩務員に怒られ、迎えた春の天皇賞でも4着に敗れ、メジロ牧場から騎手交代の声が聞こえてきたが、北野ミヤは降ろさないでくれた。自分一人の力だけでは何事も為しえないと反省し心を入れ替えるようになった。


横山は「ライアンが一番強いことは間違いない。負けたのは自分のせい」と猛省。宝塚記念では「これで負けたら、もう強いとは言わない」と強い覚悟を持って臨み、前に行きたがっているメジロライアンを尊重して思い切った先行策を取り、GⅠ初勝利をプレゼントすることが出来た。


翌年、メジロライアンは屈腱炎が再発し引退。引退式に臨んだ横山は、実力通りに勝たせてあげられなかった不甲斐なさと自分を育ててくれた感謝の思いから涙を流した。その後も「今日の僕があるのはライアンのおかげ」「ライアンが一番強いという思いは変わらない」と語り続けている。


2016年にメジロライアンが亡くなった際には納骨式に参列して挨拶を行った他、資金提供を行い、ライアン最期の地となったレイクヴィラファーム(旧メジロ牧場)内にメジロライアンの墓を建立している。


ホクトベガと「ノリポツン」

横山典弘は1995年から“砂の女王”ホクトベガに騎乗し、交流重賞で連勝を続けた。そして1997年、ホクトベガは「第2回ドバイワールドカップ」に招待される。横山は「ドバイで勝負してみたい」と中野隆良調教師とともに馬主を説得し、ホクトベガは引退レースとして出走することになった。

しかし、遠征嫌いのホクトベガは初の海外渡航で体調を崩してしまう。雨での順延で多少は持ち直したものの、ベストとは言えない状態。レースに臨んだホクトベガはあまり行きたがらなかったが、が第3コーナーで少し強引に仕掛けた所、前の馬と接触して転倒。更に後続馬とも衝突するという大事故を起こしてしまった。

ホクトベガは左前腕節部複雑骨折で予後不良。横山も死を覚悟したと言うが、ホクトベガが体を投げ出して放り出してくれたおかげで馬同士の衝突に巻き込まれずに済み、大事には至らなかった。

それ以降、横山は「馬に命を助けられて、今こうしていられる。俺が強引な騎乗をしなければあんなことにはならなかった」と悔やみ、馬と騎手の安全第一な騎乗を心がけるようになった。


馬の行く気を尊重し、無理をさせない。その為、時に一頭だけ最後方においていかれるような騎乗が見られるようになり、ファンは「ノリポツン」と呼んでいる。

ただし、歩様がおかしいなど本来使うべきでない馬に徹底して無理をさせない「疑似ポツン」と、一発逆転を狙っている「本気ポツン」がある。


前に行きたがる馬に任せて行かせる「前ポツン」は絶妙なラップの逃げで後続を翻弄する動きで魅せる。その最たる例がセイウンスカイの菊花賞で見せた騎乗だろう。


また極稀ではあるがゲキを入れる事もある。ゴールドシップの2015年天皇賞(春)で見せたノリポツン・横ポツンの末のロングスパートが代表例である。


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セイウンスカイ@菊花賞競馬 リーディング獲得記念 横山典弘


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