史実
混乱を防ぐため、即位前の呼称も「考烈王」で統一する。
頃襄王の子として生まれ、太子に立てられる。楚が秦と和平を結んだ時、春申君と共に人質として秦に入った。のちに秦の右丞相となる昌平君はこのとき、考烈王と秦王・昭襄王の娘の間に生まれた子供。
紀元前263年、父の頃襄王が病に倒れると、考烈王は帰国して王位を継ごうと考えた。だが、秦の昭襄王はこれを許さなかった。そこで春申君の策により、髭を剃って変装して密かに秦を脱出し、帰国して楚の王位に就いた。これを聞いた昭襄王が激怒したが、春申君の死を賭した態度に感服し、代わりに考烈王の弟の昌文君を人質として要求したことで丸く収まり、春申君は帰途を許された。
紀元前259年、秦が趙を攻め寄せてきたとき、趙の公子の平原君と講和を結ぶ対談をしたが、考烈王は前に秦に侵攻を受けたこともあり、渋って講和がまとまらなかった。これに業を煮やした平原君の食客の毛遂は剣を帯びて、考烈王の目前に向かい「秦の白起は楚の首都を蹂躙して楚の父祖を辱めました。今回の合従は趙のためではなく、楚のためであります」と述べ、毛遂の働きかけで、楚と趙の盟約が成立した。
紀元前241年、春申君が楚・趙・魏・韓・燕の5カ国連合軍を率いて、秦を攻撃したが、敗走した(函谷関の戦い)。
同年、東方の寿春に遷都した。
紀元前238年、考烈王は側室の兄の李園に後事を託して崩御した。この後、李園は春申君を殺害して公子悍を幽王として即位させ、自らは宰相の地位に就き権力を握った。
キングダム
CV:高塚正也
第四十三代楚王。気位が高く、激しやすい性格。とにかく面子を気にしている。合従軍編では、開戦の号令を楚軍が掛けることを要望したり、臨武君、汗明が戦死して楚軍が足を引っ張っている状況に怒りをあらわにしていた。始皇九年に崩御した。跡継ぎに恵まれず、崩御前に精神に異常のある王弟より、李園の妹が産んだ春申君の子を自身の子として次の楚王に即位させるよう、春申君と李園の三人で企てた。
次の楚王となった幽王のほか、幽王の死後即位した同母弟の哀王、哀王や李園兄妹を殺した国人たちに擁立された負芻(幽王・哀王の庶兄)などの子がいたが、幽王以外は登場していない。
また、昌文君は弟であり、昌平君は息子だが、少なくとも作中においてそのことに言及はされていない。