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概要

揚州会稽郡余姚県の人。

高祖父は虞光。曾祖父は虞成。祖父は虞鳳。父は虞歆(字は文繡)。子は虞汜・虞忠・虞聳・虞昺など。儒学の教養があり、孔融張紘から高く評価される。


初めは会稽の王朗に仕えていたが、敵対した孫策軍が会稽に迫ると、虞翻は抵抗せず避難するように勧めたが聞き入られず、王朗は孫策軍と戦って敗れた。

その後、孫策の招聘され仕官に応じ、そのまま会稽の事務を担当する。孫策とは気が合ったらしく、友人のような立場で遇された。


その後、孫策が亡くなり、孫権が後を継ぐ。代替わりの不安定な時期を狙い、曹操が、呉の人材を呼び寄せようとした。曹操はこの時、すでに漢の皇帝を手中に収めており、漢王朝の臣下を名乗る呉の民が断るのは難しかったが、虞翻はこの曹操の使者を盗賊と呼んで追い返した。

こうして孫権に仕えることになった虞翻だが、孫権とはしっくり来なかったらしい。虞翻は率直に物言いをするだけでなく他人との協調性に欠く性格であり、孫権はこの態度に業を煮やし、流刑に処した。


流刑から十年近くたった頃、関羽の守る荊州に攻め込む話が出た時、虞翻は将の一人として戻ることとなる。この時、虞翻の才能を評価し、罪を許すように計らったのが呂蒙だった。呂蒙とともに荊州を攻めた虞翻は、守将の士仁を調略し、に降す事に成功。同じく蜀の糜芳も降伏させ、荊州占領に多大な功績を持つようになった。


前述のように、曹操の使者や同僚にも、平気で罵声を浴びせるような苛烈な人物だったので、後にから降ってきた糜芳や、魏から投降してきた于禁とは非常に折り合いが悪かった。

孫権が、于禁と会見の機会を設けた時、馬でともに出かけた事があった。このとき虞翻は「なぜ降伏した者が陛下(孫権)と馬を並べられるのか」と激怒し、于禁を鞭で打ち据えようとした(それも孫権の目の前で)。これは孫権が慌てて周囲の者に虞翻を止めるように命じて、未遂で終わったという。また、魏の音楽を聞いて故郷を懐かしみ涙を流す于禁を見かけて、「心にもないことを」と嘲笑するなどしている。ただ、当の于禁は、虞翻の言い分を正しいと評価していたという。

(なお、于禁を批判した話は魏にも伝わっていたのか、于禁を嫌っていた曹丕は虞翻を高く評価していたという)


また、糜芳に対しては、虞翻の船と糜芳の船がすれ違った時に、糜芳の家臣が船を避けるように伝えたところ、虞翻は「劉備を裏切っておいて、どうやって陛下(孫権)に仕えるつもりか」と罵倒した。糜芳は反論せず、自分の船を避けて、虞翻を通したという。

また、糜芳の陣地を通り抜けようとした時、門が閉まっていたので「閉める時に門を開けて降伏するのに開ける時に門を閉ざしたりする。道理が分かっているのか」と批判した。


また、酒の席での失敗も多い。ある日、孫権が酒宴を開き、自ら家臣の杯に酒をついで回っていた。やや飲みすぎていた虞翻は、酔い潰れたふりをして、やり過ごしたが、孫権が立ち去ると座り直した。これを見た孫権は激怒し、剣を取って虞翻を斬りつけようとするが、とっさに劉基は孫権を止めた。

「曹操は孔融を殺したのになぜ俺が虞翻を殺してはならんのだ」と孫権は言ったが、劉基は「曹操は孔融を殺して天下の非難を浴びたからそんな事をしてはならない」と説得し、やがて酔いが冷めた孫権は配下に「自分に酒が入った時は、殺すと言っても決して殺さぬように」と命令したという。


評価

三国志「虞翻伝」において、陳寿は虞翻を評して「虞翻は古の『狂直』(過度なまでに正しいと思う所を貫こうとする)とも言うべき人物だったため、このような末世の時代に禍を避ける事ができなかった。彼を受け入れられなかった孫権の度量の大きさもに欠ける所があったともいえよう」と書いた。


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三国志 孫呉

孫策 王朗

于禁 糜芳

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