神聖ローマ帝国
しんせいろーまていこく
ドイツ語:Heiliges Römisches Reich
ラテン語:Sacrum Romanum Imperium
イタリア語:Sacro Romano Impero
当時の風刺
当時の風刺
Ce corps qui s'appelait et qui s'appelle encore le saint empire romain n'était en aucune manière ni saint, ni romain, ni empire.
(Voltaire, 1694.11.21-1778.5.30.)
神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。
(ヴォルテール著『歴史哲学序論 諸国民の風俗と精神について』70章)より)
以上は神聖ローマ帝国についての有名な言説であるが、日本においても社会学者の小室直樹氏がその実態を「世俗ドイツ共同体」と述べていたりとこの国家は時代を越え各方面でボロクソに言われている。
概要
概要
西ローマ帝国の後、カロリング帝国(フランク王国)、東フランク王国をへてヨーロッパに「再建」されたローマ帝国であり、ドイツ人にとっての「第一帝国」である。
領土は現在のドイツ・オーストリアのほか、チェコ、スロベニア、スイス、オランダ、ベルギーなどに広がり、またイタリア北部、フランス東部も最盛期にはその領域に含めていた。
この政体は中世から近代にかけておよそ1000年間存続したが、神聖ローマ皇帝の権力はローマ教皇や地方諸侯とのせめぎ合いにより弱体化していた時期が長かった。
歴史
歴史
その始まり
ややこしいことに、いつ始まったかに関してもいくつかの説があり、定説がない。
日本では通俗的に、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング朝的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まるとされ、学校における世界史教育もこの見方を継承している。
だがドイツの歴史学界では、この神聖ローマをカール大帝(シャルルマーニュ)から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。
- カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「継承ローマ帝国」期(800年-911年)
- オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「神聖なる(ローマ)帝国」期(962年-1254年)
- 世後期から1806年にいたる「ドイツ人の神聖ローマ帝国」期
上記の区分けは神聖ローマ帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。神聖ローマ帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取っていたが。
- 三王朝時代
- ザクセン朝
- ザーリアー朝
- ホーエンシュタウフェン朝
中世盛期の王朝は、上記の王朝で事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。神聖ローマ皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)。
歴代の神聖ローマ皇帝は、「ローマ帝国」という名目のためにかつてのローマ帝国の帝都のイタリア・ローマ支配権を唱え度々侵攻した。当初神聖ローマ皇帝は教皇権に対して優勢であり皇帝たちは度々教皇庁に介入していたが、教会改革運動が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった。
大空位時代
この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている。1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ。
14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになりさらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。この間異なる家門の皇帝が続く跳躍選挙の時代が続いたが、1438年に即位したアルブレヒト2世以降はハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになった。
ハプスブルグ家ローマ帝国時代
マクシミリアン1世(大帝/通称最期の騎士)治世の1495年から帝国改造が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。(連邦的帝国といわれる)
16世紀、カール5世(※メイン画像)の治世に始まった宗教改革によって神聖ローマはカトリック勢力とプロテスタント(ルター派)勢力に分裂し、宗教紛争は最終的に皇帝(カトリック)側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。
宗教対立は収まらず、1618年に三十年戦争が勃発してドイツ各地が甚大な被害を受けた。1648年のヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ諸侯の協力による神聖ローマ帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。
三十年戦争後は、安定した中で北ドイツで徐々にハノーファーとブランデンブルク(プロイセン)が力を付けていく。そして、ハプスブルク家の男系が絶えたことで起きたオーストリア継承戦争によって、プロイセンが飛躍する。その後七年戦争で神聖ローマ帝国の宿敵とも言えるフランスと手を結んだことと、バイエルン継承戦争での拙劣な自領拡大策により、ハプスブルク家の求心力が落ちる。北部のプロテスタント諸侯はハノーファーとブランデンブルク(英普同盟)を頼みとするようになるなど諸侯とのバランスが大きくかわり、諸侯の集合体としての神聖ローマ帝国は機能不全になった。
解体
19世紀初頭には、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、多くの諸侯領がフランスに併合された。残る諸侯も、ホーエンツォレルン家とハプスブルク家以外は帝国から脱退して、フランス帝国に従属するライン同盟(国家)を結成した。既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。
ドイツ語:Heiliges Römisches Reich
ラテン語:Sacrum Romanum Imperium
イタリア語:Sacro Romano Impero
当時の風刺
当時の風刺
Ce corps qui s'appelait et qui s'appelle encore le saint empire romain n'était en aucune manière ni saint, ni romain, ni empire.
(Voltaire, 1694.11.21-1778.5.30.)
神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。
(ヴォルテール著『歴史哲学序論 諸国民の風俗と精神について』70章)より)
以上は神聖ローマ帝国についての有名な言説であるが、日本においても社会学者の小室直樹氏がその実態を「世俗ドイツ共同体」と述べていたりとこの国家は時代を越え各方面でボロクソに言われている。
概要
概要
西ローマ帝国の後、カロリング帝国(フランク王国)、東フランク王国をへてヨーロッパに「再建」されたローマ帝国であり、ドイツ人にとっての「第一帝国」である。
領土は現在のドイツ・オーストリアのほか、チェコ、スロベニア、スイス、オランダ、ベルギーなどに広がり、またイタリア北部、フランス東部も最盛期にはその領域に含めていた。
この政体は中世から近代にかけておよそ1000年間存続したが、神聖ローマ皇帝の権力はローマ教皇や地方諸侯とのせめぎ合いにより弱体化していた時期が長かった。
歴史
歴史
その始まり
ややこしいことに、いつ始まったかに関してもいくつかの説があり、定説がない。
日本では通俗的に、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング朝的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まるとされ、学校における世界史教育もこの見方を継承している。
だがドイツの歴史学界では、この神聖ローマをカール大帝(シャルルマーニュ)から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。
- カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「継承ローマ帝国」期(800年-911年)
- オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「神聖なる(ローマ)帝国」期(962年-1254年)
- 世後期から1806年にいたる「ドイツ人の神聖ローマ帝国」期
上記の区分けは神聖ローマ帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。神聖ローマ帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取っていたが。
- 三王朝時代
- ザクセン朝
- ザーリアー朝
- ホーエンシュタウフェン朝
中世盛期の王朝は、上記の王朝で事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。神聖ローマ皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)。
歴代の神聖ローマ皇帝は、「ローマ帝国」という名目のためにかつてのローマ帝国の帝都のイタリア・ローマ支配権を唱え度々侵攻した。当初神聖ローマ皇帝は教皇権に対して優勢であり皇帝たちは度々教皇庁に介入していたが、教会改革運動が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった。
大空位時代
この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている。1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ。
14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになりさらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。この間異なる家門の皇帝が続く跳躍選挙の時代が続いたが、1438年に即位したアルブレヒト2世以降はハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになった。
ハプスブルグ家ローマ帝国時代
マクシミリアン1世(大帝/通称最期の騎士)治世の1495年から帝国改造が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。(連邦的帝国といわれる)
16世紀、カール5世(※メイン画像)の治世に始まった宗教改革によって神聖ローマはカトリック勢力とプロテスタント(ルター派)勢力に分裂し、宗教紛争は最終的に皇帝(カトリック)側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。
宗教対立は収まらず、1618年に三十年戦争が勃発してドイツ各地が甚大な被害を受けた。1648年のヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ諸侯の協力による神聖ローマ帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。
三十年戦争後は、安定した中で北ドイツで徐々にハノーファーとブランデンブルク(プロイセン)が力を付けていく。そして、ハプスブルク家の男系が絶えたことで起きたオーストリア継承戦争によって、プロイセンが飛躍する。その後七年戦争で神聖ローマ帝国の宿敵とも言えるフランスと手を結んだことと、バイエルン継承戦争での拙劣な自領拡大策により、ハプスブルク家の求心力が落ちる。北部のプロテスタント諸侯はハノーファーとブランデンブルク(英普同盟)を頼みとするようになるなど諸侯とのバランスが大きくかわり、諸侯の集合体としての神聖ローマ帝国は機能不全になった。
解体
19世紀初頭には、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、多くの諸侯領がフランスに併合された。残る諸侯も、ホーエンツォレルン家とハプスブルク家以外は帝国から脱退して、フランス帝国に従属するライン同盟(国家)を結成した。既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。
コメント
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初恋組と付けましたがイタちゃんが全く出てきません、神聖ローマの独白です。小説初投稿が死ネタって… 苦手な人はPWR押してバック!! 次回は明るい話が書けたらいいなっと( ̄∀ ̄)628文字pixiv小説作品独(神聖ローマ帝国)諸侯と、その爵位等についてのゆるいメモ書き
作品の更新代わりに。 神聖ローマ帝国は、帝国の名を冠しますが、実態は皇帝を盟主とする連邦であり、他国に比べて、構成国家たる領邦の君主の力と主権が大きく、あり方も複雑です。 神聖ローマ帝国の時代、封建領主の中でも世襲により大きな権限をもって領土を支配する諸々を『諸侯』と呼びました。 本来的には、王(ただし、ボヘミア王国など帝国内の一領邦としての王)や大公、公(Herzog)、辺境伯(Markgraf)、宮中伯(Pfalzgraf)、方伯(Landgraf)や城伯(Burggraf)等の世俗諸侯(weltlicher Fürst)、所領を有する大司教、司教、修道院などの聖界諸侯(Kirchenfürst)の総称でありました。 ということで、厨二心を刺激してやまない感じになんかかっちょいいドイツ(主に神聖ローマ帝国下の)爵位、官職位ですが、これがなんだかとってもややこしい。それでもって、これらを公侯伯子男の5爵位あたりの概念で説明しようとしたら無理無理感満載で「ああん」という感じになっているよ困ったねべはは。というような記載です。 それぞれをそれなりに解説しているつもりですが、どっちかって言うと説明すればするほど「なるほどわからん」になっている気がする、そんな感じ。(ひどい) なんとなく「ふうん」と思っていただければ。 タイトル「ドイツ(神聖ローマ帝国)諸侯と…」にしようと思ったら字数が収まらなかった… 個人的に、お貴族様称号を並べてるのに、「文句があるなら、ヴェルサイユへいらっしゃい!おほほ」気分じゃなくて、軍制の説明してる気にしかならなかったのが、さすがドイツクオリティだぜ、と思いました。(わけわからん) 自分メモなので、間違っていたらごめんなさい。 というか、教えていただけると、大変嬉しいです。6,256文字pixiv小説作品