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生存説

せいぞんせつ

生存説とは既にこの世を去った人物が今でも生きている(その後も生きていた)と囁かれる説。
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概要

既にこの世を去っているが、いまだに何らかの理由で実は生きているとまことしやかに語られるの一種であり、対義語は「死亡説」である。

基本的に「状況的に死亡したとされるが死体がきちんと確認できない状況になった」場合に発生し、判官贔屓パターンの「実は生きていた」と貴種流離譚の一種とする「子孫が生き延びていた」というものが存在する。また、同一人物、すなわち「Aはその後活躍したBと同一人物である」や落人伝説、すなわち「我々の先祖は戦に敗れこの地に逃れた~~である」という説との相性も良い。

死亡説と異なるのは、その人物が生きている事の実証が困難という点であり、またこちらは歴史上の重要人物に多く用いられ、陰謀論都市伝説のカテゴリとして扱われる事も多い。


創作における扱い

また、創作等においては歴史を題材に取るなど「もしその人物が生きていたら」という設定で執筆されたり、生存の可能性を検証するものが存在している。

時に歴史上の人物において時期を限定した生存説もある。

またストーリー上、死亡が暗示にとどまったり、はっきりと死亡とされていないキャラクターが「実は生きていた」ことをファン等から疑われることがある。


生存説の一例

この例は実在する歴史上の人物に限定されているが、それ以外も記述可能である。


安徳天皇

源平合戦の壇の浦の戦いで祖母・二位尼とともに入水したとされるが、死体が確認されたなったためどこかに漂着して生き延びたとされ、平家落人伝説のひとつとなっている。終戦直後に続出した自称天皇の一人、硫黄島長浜天皇は安徳帝の子孫だと自称した。


源義経=ジンギスカン

衣川の戦いから源義経らが生存し、大陸に渡ってモンゴル帝国を築いたという説で、源流は江戸時代程度、あるいはそれ以前にまで遡れる由緒正しい( ? )説である。

他にも北海道に渡り、アイヌに文化を伝えてカムイになったとも、満州に渡っての源流になったともいわれる。


北条時輔

鎌倉幕府第8代執権北条時宗の異母兄で六波羅探題南方を務めた時輔は文永9年2月15日( 1272年3月15日 )に起きた二月騒動にて謀反を起こした咎で時宗の命を受けた六波羅探題北方の北条義宗によって成敗されているが、その一方で当時の記録である『保暦間記』に「吉野に逃れ、行方不明になった」と書かれている。また『勘仲記』によると「時輔が元寇のどさくさで鎌倉に侵攻しようとしている」という噂が流れたとも記録されている。噂は事件から12年経過した弘安7年(1284年)まで絶えず、ついには時輔とその息子を捕えるよう命じた関東御教書が発給されるほどだった。


織田信長

本能寺の変で信長の遺体は確認されなかった事から、寺から脱出して生き延びたとされる説で、東国に逃れて権力の座には戻らず隠棲したという。また変発生直後から生死不明という状況もあって生存説は囁かれ、羽柴秀吉はこの噂を利用し、各将に「信長無事」という偽情報を意図的に流布して明智に味方しないように図った。

生き延びていたことを秀吉も知っていたが、このまま信長が再起してしまうと天下人になれるかもしれない千載一遇のチャンスを逃すことになる秀吉がどこぞの城に監禁して信長は本能寺で死んだことにした、という説もある。


明智光秀南光坊天海

山崎の合戦で敗れ、山科の山中で落ち武者狩りに遭ったとされているが、徳川家康に匿われ天海として生き延びたという説も公開された。また、天海坊は(特に前半生が)謎に包まれた人物であり、その正体は諸説(外部リンク)あり、本能寺の変の主犯共々戦国ミステリーの題材になっている。

明智光秀=南光坊天海だとすると没年が100歳を超え、論に無理があるとされるが、明智光秀にも1540年以降の生まれとする説もある(光秀は享年55歳とされているが、根拠が薄い)他、光秀の近親者(娘婿明智秀満や光秀の息子など)が本能寺の変を生き延び、天海になったとする説も。この場合年齢の辻褄も一応合うほか、光秀=天海説の根拠とされる事柄とも矛盾しない。

上記とは別に、山崎の合戦敗北後の豊臣秀吉の時代はしばらく息をひそめていたが、関ヶ原の戦いの際に一念発起して徳川方に味方するべく戦場へ向かおうとしたところ川で溺れ、そのままあっけなく溺死したという話もあったりする。


豊臣秀頼

大坂の陣で母・淀殿とともに自害したとされるが、実は大阪城を脱出し、九州島津氏を頼って落ち延びたと言われている。民間伝承では真田幸村が背負って逃げたとか。

なお、江戸時代初期の薩摩藩領内では城下町の居酒屋で浴びるように酒を飲んでは金も払わずに勝手に出て行ってしまう大男がいたが、しばらくすると数人の武士がその男の分の代金を支払いにやってくるという噂が流れていたらしい。これこそが「大男=秀頼(秀頼が恵まれた体格であったことは事実)、数人の武士=薩摩藩の家来の者」を示唆していて、大坂の陣を生き延びた秀頼が島津氏のもとで厄介になっていた証しであるとする見方もある。

秀頼自身のみならず、配下の明石全登大野治房といった豊臣方一部武将も生死不明だったため「明石狩り」が行われたり、後に彼らの生存説や噂が数回流れ、彼らを捕えるべく幕府が大捜索を行ったりしている。


島左近

石田三成腹心の武将。関ヶ原の戦いで生死不明となったが、首級が上がらず、生存説が囁かれた。現在も、左近が潜伏していたという伝承が各地に残っている。


大塩平八郎

大坂の町奉行所の元与力で陽明学者。天保の飢饉に憤り民衆を救おうと大塩平八郎の乱を起こした人物。乱はすぐに鎮圧されるも彼は潜伏、発見されると幕府方の包囲する中、火薬で壮絶な自殺を遂げた。ただ、彼の発した檄文幕府の禁制をすり抜けて各地に広まった(寺子屋の教材にまでされた)挙句「大塩残党」などを名乗って一揆などを起こす者も出た。

彼の遺体が自殺時の爆発炎上によって顔かたちもわからないほど損傷していた上に、幕府の事後処理が時間がかかり、その間に上記の騒動が各地で起き、生存説が囁かれた。塩漬けで保管されていた遺体が後に磔刑に処されるも死後の日数が経ちすぎており、誰なのかわからない有様で世間では偽物で噂を鎮めようとしたと疑われ、生存説を補強してしまった。


原田佐之助=馬賊

新選組十番組長だった原田佐之助が新選組離脱後に旧幕臣が組織する彰義隊に参加、戦死したともいわれるが、一部で大陸に逃れ馬賊(騎馬の機動力を用いる盗賊になったともいわれている。


西郷隆盛

西南戦争に敗れ自刃したとされた西郷は実は生き延びて大陸に逃れていたとの説。日露戦争直前には行方不明となった軍艦畝傍に乗って再び日本に戻ってくるという噂も広まっていた。ニコライ2世の訪日の際、西郷が皇帝に従って日本に帰国するともいわれており、いわゆる大津事件の犯人である津田三蔵もこの噂を信じ込んでいたといわれる。


楊貴妃

史実では安史の乱を引き起こした責任を取らされて絞殺されたが、難を逃れて小舟に乗って、日本に漂着したという伝説があった。そのせいか山口県長門市の二尊院には彼女の墓が、京都市の泉涌寺には楊貴妃観音堂がある。


建文帝

靖難の変で叔父の朱棣(後の永楽帝)に攻め込まれたが、彼の死体は見つからなかったので僧侶になって生き延びたのではないかという伝説ができた。鄭和の大艦隊も海外へ逃れた建文帝を探すという目的があったのではないかという説もある。


アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ

ロシア革命で処刑されたニコライ2世の娘・アナスタシアは処刑されずに生き延びたとされ、その遺骨が見つかるまで20世紀の謎のひとつとして広まっていた。


川島芳子

日本軍の協力者として中国国民党に処刑されたとされるが、実は処刑前に脱走し、一市民として生き延びたとされ、彼女の娘だと名乗る者もいた。


アドルフ・ヒトラー

彼の場合は死後の遺体の末路が不明瞭である事から、ベルリン陥落後も何らかの形で実は生き延びていたという説。逃走先として南米南極が挙げられている。

東西冷戦中は東西両陣営とも「相手方がヒトラーの消息について何か隠しているのでは?」と疑心暗鬼になって調査していたという。米英ソともヒトラーに似た容姿の人物を片っ端から逮捕して調べたり、アメリカ軍などは顎ひげを蓄えた姿や眼鏡をかけ髪型を変えた姿などの「逃亡中のヒトラーの想像図」を配布していた。南米で降伏したUボート艦長は「ヒトラーをどこに逃がしたのか」を執拗に尋問され辟易したというエピソードも伝わっている。

現在では冷戦終結後の情報公開で、妻のエーファゲッベルス一家の遺体共々総統官邸跡でソ連軍が回収しており、東ドイツソ連軍施設に埋葬したが、埋葬した軍施設を東ドイツに返却する為に、遺骨を掘り返して焼却し川に散骨したことが明らかになっている。

他、ナチス幹部には終戦時に自殺したとされるものの、本当に自殺したのか不明瞭で生存説が囁かれたリヒャルト・グリュックスのような事例や、終戦時に自殺したものの長期間遺体が見つからず、消息不明扱いになっていたマルティン・ボルマンのような例もある。南米などに逃亡した元ナチス幹部も多かったこともあり、生存説に拍車をかけてしまった。


エルヴィス・プレスリー

若くして急死し葬儀も密葬で行われたこともあり、ファンの間では生存説が共有されていた。現在の姿と称する写真がゴシップ誌でたびたび報道されるなど現代アメリカにおける生存説の代表的例として扱われている。


ジャンヌ・ダルク

火あぶりの刑に処された悲劇の美少女として有名だが、実は処刑されたジャンヌ・ダルクは替え玉で、本物は生き延びていたという話がある。実際に処刑5年後の1436年にフランスロレーヌ地方でジャンヌ・ダルクを名乗る女性が現れ、真偽を確かめに行ったジャンヌの兄たちも本人であると認めたという。ロレーヌ地方領主と幸せに結婚して家庭を築いたといわれるが、その後は姿を眩ましたこともあり、本当に本人であったのかはわかっていない。


土方歳三

落馬により亡き後、小芝長之助という男が遺体引き取り役として派遣され、小芝は土方の遺体を背負って五稜郭に戻り、そこで穴を掘って埋めたといわれている。だが、その場所はなぜか具体的に明記されていない。その後、遺体があったとされる場所は明治11年に土塁修復工事がなされ、その際に出土した多くの人骨はまとめて近くの寺に埋葬されたため土方の骨が実際にあったかは検証不可となった。

このような経緯によりいくつかの生存説が唱えられた。1つ目はロシア亡命説」。懇意にしていた函館の豪商・佐野専左衛門のツテでロシアに亡命したという噂だが、噂の域を出ない(西郷隆盛生存説の亡命先もロシアであり、当時の鉄板だったのかもしれない)。

2つ目がフランス亡命説」。これは、祖国からの帰国命令を無視してまで土方たちと行動を共にしていたフランスの軍人たちが乗った軍艦が、函館沖にまだ停泊中だったという事実が残っているため。

3つ目は、もはやほとんどネタと化している荒木飛呂彦説」。漫画『ジョジョの奇妙な冒険』で有名な日本の漫画家であるが、彼は驚くほどに土方にそっくりで、さらに容姿が数十年に渡り全く老けていない。そのため実は土方は不老不死に近い存在で、今も荒木飛呂彦名義で活動しているのではないかと真しやかに囁かれている。

いずれの説も結局は憶測であり、信憑性は薄い(参考リンクA B C)。


事実を根拠とした生存説

日本兵生存説

元日本兵であった横井庄一氏や小野田寛郎氏が終戦後に生存が確認されて帰国を果たした前例があった為に、横井氏や小野田氏の他にも生存している元日本兵がいる・いたのではないかという説が何度かあった。結局は両者以外では未確認情報で終わったケースが多い。

映画ムルデカ」で描かれたようにインドネシアベトナムでは様々な理由で帰国せず現地の独立戦争に加勢した残留日本兵がいるが、彼らとはまた別に潜伏しているとされたケースである。

また、既に戦後70年が経過しているので今も存命している可能性は非常に低くなってきており、ほぼこの生存説は風化している。


※他にもご存知の生存説があれば追記願います。


関連タグ

死亡説 影武者  都市伝説 陰謀論


  • 三浦建太郎:源義経生存説をベースに「王狼/王狼伝」を上梓。
  • 高橋克彦:「時宗」にて時輔生存説を「死を偽装した時宗の策略」とした。
  • 本宮ひろ志本能寺の変を生き延びた織田信長が黒幕となって豊臣秀吉を操り、山崎の戦で敗れて徳川家康のもとで天海となった明智光秀を振り回す「夢幻の如く」という漫画を描いている。
  • ドリフターズ:生死不明の人物、生存説の囁かれた人物が異世界に転移するというストーリーの漫画。
  • 架空戦記:「史実では早い時期に死亡または消息不明になった人物が実は生きていたら…?」という設定の作品がいくつか存在する。

外部リンク

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