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幸運船

こううんせん

幸運に恵まれた船。軍艦を示す「幸運艦」ではない。太平洋戦争時の日本商船は大半が沈没したため、特に「幸運船」と言う時は太平洋戦争を生き延びた稀な商船を指す事が多い。
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概要

多数の幸運に恵まれた船のこと。特に戦時中、敵の攻撃に幾度もさらされながら、戦争を生き延びた船のこと。


実は、太平洋戦争において文字通り根こそぎ動員された商船の喪失率は軍艦以上に高く、戦前から戦後まで生き延びることができた商船は僅かである。


戦時中の民間船員の死者は約6万人で、これは当時の日本人船員の43%に当たるという。陸軍将兵の戦死率は20%、海軍将兵は16%というから、船員の死亡率が突出して高いことがわかる。しかも、船員戦没者のうち約7千人は、14~16歳の少年船員であった。


どうしてこうなったのかというと、陸軍の仮想敵と海軍の仮想敵が異なった状態、つまり第一次世界大戦以前から陸軍は対、対、海軍は対米戦を想定して軍備を整備していたのだが、両軍の間で戦略目的や戦争計画の調整が付かないまま日中戦争~太平洋戦争に至った為である。


また、第一次大戦後に発生した不況の為、海軍を持つ各国は幾つもの軍縮条約を結んで軍備拡大を制限し互いに戦力を削減していた。


この状況に対して日本海軍が採用した戦略が、本土近海まで相手を引きずり込んで太平洋を渡っている間に徐々に戦力を削っていき、最後に温存していた戦力で決戦を挑むという艦隊決戦主義」である。


しかし、度重なる国際社会の停戦要請を無視して日中戦争を継続した結果、陸軍の兵器・兵站は消耗してしまった。制裁として国際社会が日本への物資の供給を止めた為、陸軍は戦争継続の為の資源調達先として「南方方面」に目を付けた。


海軍は(当たり前だが)本土へ来襲する敵戦力への戦備しか行っていなかった為、計画外である(本土以外の)南方方面を確保しても防衛し兵站を維持する戦力は準備していなかった。


こうして戦時中の日本の民間船員は、陸軍の無計画な戦争拡大と自己の戦力を全く顧みない作戦により、本土~南方間の兵士や装備、食料、燃料の輸送の為に日本中の商船を徴用して戦場に投入し、その船団を準備が整っていないまま海軍の艦艇が護衛する形となる。


南方へ派兵する陸軍のために徴用された民間船は、元々日本本土を離れた地域に展開する予定が無かった海軍には割ける戦力すら調整が難しく、ろくな海上護衛もつけられないことがしばしばあった。


また仮に護衛をつけられたとしても、前述のとおり海軍の駆逐艦は対艦隊戦を想定して建造されたため対潜能力が不足しており、船団が潜水艦に続々と沈められる有り様となった。


しかし、陸軍は徴用した商船が消耗していくと、開戦前に決められた割り当て数を変更して陸軍に渡す様に要求しはじめ、ついには陸軍参謀本部に対して東条英機首相(兼陸軍大臣)が「本土の人間の生活をどうするつもりだ!」と激怒する事態に陥った(東條首相罵倒事件)


結果として、アメリカ海軍の通商破壊作戦により、商船船腹の大半が海の藻屑と消えたのであった。


太平洋戦争の幸運船

ほぼ全てが悲惨な末路をたどった日本の商船の中でも、幸運にも生き延び戦後も活躍することができた稀な船を挙げる。生存船の中では砕氷船(耐氷船を含む)の比率が高めだがこれは砕氷船の特殊な形状の船首が生みだす大きな波飛沫が速度を誤認させ、攻撃が外れる可能性を高めたため、といわれている(それでも「高島丸」はじめ当時の日本に存在した砕氷船の大半は沈没しているのだが)。


病院船 氷川丸

(北米航路の貨客船。1930年竣工。日本郵船所属。大型外航船で太平洋戦争を生き残った2隻のうちの一隻。太平洋戦争には海軍徴用の病院船として従事した。戦後北米航路に復帰し、外航船時代の最後を飾る。現在も横浜・山下公園に保存されている)


(インドネシア航路の貨客船。1939年竣工。南洋海運所属。戦前51隻を数えた大型外航船のなかで、「氷川丸」とともにただ2隻、太平洋戦争を生き残った。こちらは陸軍徴用船であり、保護の受けられる病院船でないのに生き残ったという点では、氷川丸よりも幸運といえよう。戦後は巡航見本市船として東南アジア各地を回った)


(阿波国共同汽船の貨客船。同名の陸軍特殊船とは別の船である。1937年竣工。日中戦争と太平洋戦争と2度にわたって海軍の徴用を受けたが生存。戦後は触雷や台風で被害を受けながらも再起を続け、後継のカーフェリー「あきつ丸」(2代目)が就航する1970年代まで活躍した。)


鉄道省の稚泊連絡船。1932年竣工。老朽化した「壱岐丸」にかわる新造船として建造され、僚船の「亜庭丸」とともに希少な砕氷機能を持つ鉄道連絡船として北海道の稚内樺太の大泊を結んでいた。太平洋戦争を無傷で生き延びた数少ない鉄道連絡船の1隻。宗谷海峡で2度にわたり潜水艦に襲われるがいずれも逃れた。大戦末期、樺太がソ連の侵略を受けたため避難民を北海道に運び、樺太喪失後は青函連絡船として就役した。本船以降、「宗谷」の名を冠した船は長寿幸運に恵まれるというジンクスがつくようになり、多くの船にその名が引き継がれることになった。なお、船名が同じ海上保安庁砕氷型巡視船「宗谷」(元特務艦)とよく混同されるが、国鉄連絡船宗谷丸の方が大型で速度や砕氷能力も上回っていた。本船も宗谷と同様、灯台補給船、南極観測船の候補に挙がったことがある)


(山陽鉄道が建造した貨客船。1905年竣工。関釜連絡船の第一号船として就役したあと、鉄道国有化を経て鉄道省所属となり、青函連絡船へ転属。その後稚泊連絡船となり砕氷船へ改造される。上記の宗谷丸就役に伴って、1932年に大阪商船に売却され、樺太丸と改名。1939年には稚内でソ連の汽船インディギルカの乗客400名を救助している。その後琉球航路、樺太航路を経て、大戦末期の1945年、鉄道省にチャーターされ青函連絡船の任務に復帰。44年もの長寿を全うして1951年解体された)


運輸通信省のW型戦時標準船(青函型)。かの悪名高き第2次戦時標準船の1隻である。竣工直後浦賀から青森への回航中、三陸沖で潜水艦に襲われるが爆雷でこれを追い払い就航。また1945年7月14日の空襲により、ほぼ全滅した青函連絡船であったが、第七青函丸はこの日入渠を終えることになっていたため陸地の近くに居り、攻撃を受けてすぐに座礁することができたので大破と被害が最も軽かった。その後10日で応急修理を終え運用に戻り、終戦を迎える。戦後も洞爺丸台風の被害を入渠していたため免れ1965年まで青函航路で活躍した。)


日本郵船所属の砕氷型貨客船。1921年竣工。陸軍徴用の病院船を経て太平洋戦争中には日本海軍に徴用される。海軍は砕氷艦を「大泊」しか建造しなかったため、砕氷能力を有する本船は同様に海軍に徴用された「白陽丸」(千島沖で撃沈)や、海軍に編入された「宗谷」とともに貴重な砕氷輸送船として扱われた。戦後は国内定期航路を経て民間会社の海難救助船となり、40年にもわたる長寿を全うして解体された)


(高千穂商船・大同海運所属の貨物船。太平洋戦争中に日本海軍により機雷敷設艦として徴用され、海上護衛総司令部の下で防御用機雷堰の構築に従事。米潜スコーピオン、エスカラー、ソードフィッシュ、ケートなどの撃沈に貢献した。任務中に2回触雷、さらに大湊空襲で損傷するも、いずれも奇跡的に沈没を免れている。大戦末期には樺太からの避難民輸送に出動し、三船殉難事件で撃沈された貨物船泰東丸の乗員を救助した。なおこの際、三船殉難事件を起こしたと思われるソ連潜L-19が触雷・沈没しており、これも高栄丸が敷設した機雷によるものと言われる。復員輸送艦として利用された後、戦後も15年以上商業航路で活躍した)


(三菱商事所属の石油タンカー。太平洋戦争前に建造された日本の大型タンカーのうち終戦時に健在だった唯一の船。32年間も一貫して石油輸送に従事した功績から、「さんぢゑご丸を知らずして、タンカーを語るなかれ」と日本の海運関係者の間で評された。戦後は捕鯨船団の給油船兼鯨油中積み船を経て外航航路に復帰。1960年まで活躍した)


仮装巡洋艦信濃丸

(日本郵船所属の貨客船。1900年竣工。日本海海戦時の仮装巡洋艦として有名だが、太平洋戦争にも徴用の輸送船として参加しており、水木しげるをラバウルまで運んでいる。太平洋戦争時には「浮かんでいるのが不思議」と言われるほど老朽化していたが、無事生き延び、戦後は引揚船としての任務を全うして解体された)


(三井物産所属の貨物船。1937年竣工。戦前・戦後にわたり、ニューヨーク航路の主力船として活躍した。戦時中は当初海軍、のちに陸軍に徴用され、輸送任務に従事。末期には病院船となる。大戦を通じて船員の戦死者は2人だけであった。戦後はニューヨークに入港した戦後初の日本船となり、1960年代末まで国際航路で活躍した。)


鉄道省所属の関釜連絡船。1937年竣工。その性能の高さから海軍に徴用されて空母に改装されそうになるも、陸軍の反対によりその危機を免れる。大戦末期には対馬海峡にもアメリカ軍の潜水艦が跋扈し、連絡船が次々沈められ、航路の安全性が著しく悪化したため、内地で温存され終戦を迎える。戦後は1957年に至るまで引揚船として活発に活動。引揚船の代名詞的存在であった)


(川崎汽船所属の貨物船。1937年竣工。その直後に宇高連絡船第一宇高丸を沈没させる事故を起こす。太平洋戦争では特設水上機母艦、特設運送艦として運用された。輸送任務中に潜水艦の雷撃で大破するも再起。大戦末期に艦載機の攻撃を受けて着底するも引き上げられ、ばら積み貨物船として国際航路に復帰。1969年に解体されるまで活躍した)


(満鮮運輸所属の小型貨物船。1935年竣工。太平洋戦争中は開戦時から海軍に徴用され、特設掃海艇に改造。千島方面・南西諸島方面などに哨戒・輸送船の護衛任務についたのち、津軽海峡で対潜水艦哨戒任務につく。米潜アルバコア機雷の罠にかけ、触雷・沈没に追い込んだのがこの船である。戦後は恵光丸と改名して商船に戻り、瀬戸内海方面で1979年まで貨物船として活躍した)


(中央気象台(戦後は気象庁)所属の気象観測船。日本初の本格的気象観測船として建造され、耐氷構造の船体、各種実験観測設備を有していた。太平洋戦争中は徴用船に準じて海軍で運用され、危険な輸送任務にも従事しながら無事に終戦を迎える。戦後は再び気象観測船となり活躍した。凌風丸の名は気象庁の2代目、そして現役の3代目の気象観測船にも受け継がれている)


 (三菱高島炭鉱所属の客船兼タグボート。1887年竣工。総トン数206トンの小型船ながら日中戦争では陸軍に徴用されて長江に出撃。機銃掃射を数十発受けるも修理ののち復帰。戦後も1962年まで活躍した日本有数の長寿船)


 (尼崎汽船部の貨客船。1905年竣工。明治から大正にかけて大阪で建造された小型船の1隻で1935年に焼玉機関に換装された。戦時中に関西汽船に移籍して、戦争末期には大阪府民防空監視船として徴用され終戦を迎える。戦後に古巣の尼崎汽船部に戻るが、1952年に宝海運に売却され1967年まで活躍した)




(ドイツが日本に派遣した軍需物資の交換用の輸送船(秘匿名称:柳船)16隻のうち、無事に往復し任務を達成できた二隻の船。他の船は途中で撃沈されるか、日本で動けなくなったまま終戦を迎えた)


その他の日本の幸運船

(国鉄所属の青函連絡船。1948年就役。1954年の洞爺丸台風では同型の「洞爺丸」をはじめ多くの連絡船が転覆するなか、浸水被害を受けながら奇跡的に生還。1964年青函連絡船を引退後ギリシャ・キプロスを経てパレスチナ解放機構に売却され、停泊中にイスラエル特殊部隊の爆破工作を受けるが致命傷は免れ修理され復帰。1991年搭載車両に引火・爆発して沈没するという劇的な最期をとげた)


 (原名ターパンニョーといい、1864年建造された。1866年に江戸幕府に購入され、最初は鵬丸と改名されたが、すぐに奇捷丸と再改名され江戸大阪間の定期航路に就役した。明治に入ってアメリカに売却され、ルソン号となるが台湾出兵の時に日本が購入し、青函連絡船としても活躍した。1931年中華民国に売却され、1957年頃までロイズ船名録に登録されるという長寿を誇った)


第一次世界大戦の幸運船

オリンピック号

(海難史上有名なタイタニック号の姉であるホワイト・スター・ライン社の大西洋航路の客船。軍に徴用される前に巡洋艦ホークと衝突事故を起こした事もあるが、第一次世界大戦では軍に徴用され、末妹のブリタニック号が触雷で沈むなか、米国から総計12万もの兵士を輸送する活動に従事しながらもオリンピック号は無事に終戦を迎える事が出来た。その活動中にU-103から狙われるも幸運にもU-103が機器の故障により魚雷が発射できなかったために雷撃を免れ、逆に衝角攻撃で返り討ちにしている。また魚雷が一本命中していたが不発だったので助かった事が後で分かった事もあった。終戦後は客船に戻り姉妹船とは違い天寿を全うした)


関連項目

幸運艦 - 軍艦の場合はこちら。

宗谷(船) - 本稿で記述した船たちと、何かと縁が深い保存船(元特務艦)。特務艦としては唯一、商船から買収の形で海軍籍に編入されており、現存する唯一の戦前日本の貨物船でもある。


参考ページ

船会社「うちの子を返して(´;ω;`)」 戦時徴用された民間船舶の戦時補償の深すぎる闇

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