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生涯

  • 生:天文二十二年(西暦1553年)
  • 没:天正十八年五月二十七日(西暦1590年6月28日)

天文22年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄八年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた。

わずか16歳の若さで将軍・足利義昭の仮住まいとなる本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。同時に奉行職だけでなく、戦場でも目覚ましい活躍を残した。

織田軍の主要な合戦である天正三年(西暦1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正五年(西暦1577年)の紀伊討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛羽柴秀吉らとともに一隊を率いる武将として参戦している。

翌年の中国地方、有岡城攻め(有岡城の戦い)では、同じく小姓仕えであった万見重元菅屋長頼らと鉄砲隊を率いる。人事面でも信長の孫、三法師こと織田秀信の後見役を一任されるなど、信長の信任も厚かった。

何事もそつなくこなす事から官名の久太郎を取って「名人久太郎」という渾名が付くほどの活躍振りを誇った。


信長が本能寺の変で横死した後、豊臣秀吉の家臣となり山崎の戦いから九州の役、そして小田原の役でその手腕を遺憾なく発揮。

特に小牧・長久手の戦いでは、別働隊にて従軍し池田恒興森長可といった諸将が戦死する中、追撃してくる徳川家臣の榊原康政大須賀康高を破り唯一、生還するという活躍を見せている。

九州の役では余りにも自身が連戦連勝であったため、敵陣に「休みたいから三日は持ちこたえてくれ」という書状を送ったとされ、この書状を受け取った島津側は戦意を一気に喪失したそうな。

天正十八年(西暦1590年)の小田原の役の五月下旬に疫病を患い、陣中にて急死した。享年三八。後を長男の秀治が継いだ。織田秀信の後見人として、死のその直前まで織田家の行く末を案じていたと言われているが、流石の名人久太郎も病魔にだけは勝つ事が出来なかった。


遺体は神奈川県小田原市の海蔵寺に一旦葬られたが、髷だけは領内に持ち帰られ、福井県北之庄(福井市)の居館近くの長慶寺に埋葬された。のちに堀家が転封となった際、新潟県上越市春日山城の林泉寺に改葬される。

福井県福井市の長慶寺に位牌と墓所のひとつが伝わり、同寺では毎年5月27日に供養祭が行なわれている。


創作

信長の忍びシリーズ

「油断大敵」が口癖。蘭丸と並ぶ信長の侍従的立ち位置。明智光秀の事を尊敬しており、光秀からはツッコミの弟子だと思われていた。口八丁手八丁なため信長からは「観光案内人に向いている」と言われている。


軍師黒田官兵衛伝』では本能寺の変を聞いて、師匠が上官を殺したと知り失神していた。官兵衛曰く「秀吉殿と同じくらい信長さまに傾倒していたものなー」。


それよりさらに後を描いた『真田魂』では豊臣秀吉の側近として登場したが、今のところまだ背景キャラである。

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