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生 没:建長元年5月27日(1249年7月9日)~嘉元3年9月15日(1305年10月4日)

 諱 :恒仁

追 号:亀山院


概要

第88代・後嵯峨天皇と、その中宮の西園寺姞子(大宮院、西園寺実氏の娘)との間に皇子として生を受ける。

両親からの寵愛を受け、同母兄の後深草天皇を差し置く形で治天の君となるも、そのことは自身の子孫(大覚寺統)と、後深草天皇のそれ(持明院統)とによる皇統の分裂、ひいては2世紀前後に亘る動乱の火種ともなった。


一方で、為政者としては朝廷の訴訟処理機構の整備や、「弘安礼節」の制定を通して公家社会における身分秩序の引き締めに務めており、後世「弘安の徳政」とも呼ばれるこの取り組みは、対立する持明院統の伏見天皇の治世下においても引き続き踏襲・推進されていくこととなる。

また、亀山天皇が治天の君であった時期は、折しも2度に亘る蒙古襲来とも重なっており、自身も息子の後宇多天皇と共に異国降伏の祈願を行うなど、積極的な活動に及んでいる。この戦禍で焼亡した筑前の筥崎宮(現・福岡県福岡市東区)の再興に際しても、やはり敵国降伏の宸筆を納めており、後の戦国期に小早川隆景が臨写拡大したものが、現在でも楼門の額として掲げられている他、太平洋戦争末期にはごく一時期ながら、この額がデザインされた切手も発行されている。


生涯

正嘉2年(1258年)に立太子して間もなく、兄の後深草帝が病を得たのを受け、翌年11歳にして第90代天皇に即位する。

この即位には、父の後嵯峨上皇や母の大宮院の意向が深く関わっており、その後も文永5年(1268年)には、生まれて間もない自身の子・世仁親王が、これまた後嵯峨上皇らの意向により立太子の運びとなった。同じく年少とは言え、既に後深草上皇にも熈仁親王という皇子がいる中でのこの立太子は、事実上自身の子孫への皇位継承の道が絶たれる格好となった後深草上皇の不満を招くものに他ならず、兄弟の関係は次第に険悪なものへと転じていくこととなる。

それでも、文永9年(1272年)に後嵯峨院が崩御し、その遺勅により次代の治天の君を巡る裁定が鎌倉幕府に委ねられると、母の大宮院の証言なども追い風となり亀山帝の治天が確定を見ることとなり、翌々年には後宇多天皇(世仁親王)に譲位し院政を開始。前述した施策を推し進め一定の成果を挙げるに至った。


・・・が、当然これは後深草上皇の不満をより一層募らせるものでしかなく、太上天皇号の返上や出家もちらつかせての後深草上皇の働きかけもあり、幕府は妥協案として前出の熈仁親王を亀山上皇の猶子とした上で、後宇多帝の皇太子とすることにより、後深草上皇の不満を抑える動きに出たのである。

その後、幕府内での権力闘争により霜月騒動が勃発、当事者の片一方である安達泰盛が討たれると、亀山上皇の院政にもその影響が及ぶこととなる。安達泰盛も、この頃幕府において徳政を主導する立場にあり、なおかつ亀山上皇とも文化的な交流があったことから、親安達派と見られた亀山上皇は幕府から睨まれることとなってしまった訳である。

亀山上皇が倒幕を考えているとの風聞までも流れる中、幕府は弘安10年(1287年)に治天・天皇の代替わりを朝廷に申し入れ、これにより熈仁親王が伏見天皇として即位し、治天の君の座も後深草上皇へと移る結果となった。翌々年には後深草上皇の皇子の一人である久明親王も鎌倉殿として下向するなど、持明院統の勢力が増大していく中で、それと反比例して勢いを失いつつあった亀山上皇は、正応2年(1289年)に出家し、禅宗への帰依を深めていくこととなる。

とはいえ、その翌年には浅原為頼父子による天皇暗殺未遂事件に関連し、その背後に亀山院の関与があるとの疑いが持ち上がっており、最終的には潔白が証明されたものの、亀山院は幕府に対し事件に関わりのないとする旨の起請文を送ることを余儀なくされた。


嘉元3年(1305年)、宝算57にて崩御。この時既に、亀山院の幕府への働きかけで孫の後二条天皇が即位し、治天も後宇多上皇に移っていたが、次の大覚寺統の皇位を曾孫の邦良親王ではなく、その叔父に当たる自身の末子・恒明親王に譲るよう遺詔を示したことは、後宇多上皇からの強い反発を招くとともに、大覚寺統内部にも混乱を引き起こすことにも繋がった。

そしてこれが後二条帝崩御後の中継ぎとして、尊治親王(後醍醐天皇)が歴史の表舞台に立つ契機ともなったのである。


皇統

・晛子内親王

・知仁親王

・世仁親王(第91代・後宇多天皇

・啓仁親王

・継仁親王

・恒明親王

  • 典侍:久我通能の娘

・性覚法親王

  • 典侍:三条実平の娘

・良助法親王

・聖雲法親王

・覚雲法親王

・九条師教室

  • 典侍:正親町三条実任の娘

・守良親王

  • 典侍:法性寺雅子 ー 法性寺雅平の娘

・憙子内親王

  • 典侍:平時仲の娘

・順助法親王

・慈道法親王

・行円法親王

  • 宮人:洞院禖子 ー 洞院実雄の娘

・理子内親王

  • 宮人:貫川

・北政所 ー 近衛家基

  • 宮人:玄駒の娘

・兼良親王

  • 宮人:藤原寿子 ー 藤原景房の娘

・叡雲法親王

  • 宮人:三条公親の娘

・性恵法親王

  • 宮人:小倉公雄の娘

・恒雲法親王

  • 宮人:民部卿三位

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天皇 鎌倉時代 歴代の天皇


皇位

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