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概要

MXY-7「桜花」とは、大日本帝国海軍太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に開発した特攻兵器である。昭和20年(1945年)より実戦に投入された。

特攻専用に開発、実用化、量産された航空特攻兵器としては唯一の存在である。


散る桜、残る桜も散る桜

桜花は、先端部分に大型の爆弾を取り付けた特攻兵器であり、敵の対空砲などをくぐり抜ける目的で開発された。自力では離陸することができないので、一式陸攻をはじめとした大型機で目標地点まで運んで、目標に接近すると切り離される。その後は特攻隊員の操縦で目標に体当たりをする。


基本的な推進は、グライダーのように滑空して敵艦に近づくが、敵機に攻撃された場合の回避や、敵艦に接近した際の突入時に装備した火薬ロケットエンジンを使用した。その最高速度は時速983km/hにも達して、アメリカの技術力でもまともに迎撃することは困難であったが、搭載された3本の火薬ロケットエンジンはそれぞれ9秒間しか稼働せず。滑空による推進を含めてもその航続距離はせいぜい50㎞が限界であった。


そのため、敵艦隊に一式陸攻などの母機に搭載された状態で最接近を図る必要あったが、2トンを超える桜花を搭載した母機は敵戦闘機の迎撃をかわすことが非常に困難で、この弱点が桜花の兵器としての運用を困難にしたと言える。のちに、その弱点を補うためジェットエンジンを搭載し航続距離の延伸を図ったものや、母機ではなく地上基地から発射されるものなどの新型が開発されたが、終戦までには間に合わなかった。


連合国は桜花を「BAKA BOMB」つまり「馬鹿爆弾」というコードネームで呼んでいたため、その語感から今日の日本においては、米軍から役立たずの兵器としてバカにされていたと根拠もなくバッシングされることも多いが、実際は「BAKA」というコードネームは、連合軍(と言っても主に米軍)の西洋的価値観により、「自殺攻撃をする愚かな」兵器として、英語の「fool」を和訳したものであり、別に兵器としての有効性をバカにしていたわけではない。事実、沖縄戦で占領した日本軍の飛行場で「桜花」を鹵獲した米軍は、その兵器としての潜在能力を詳細に分析し、米艦隊に対する最悪の脅威と捉えて徹底した対策を講じている。


実用化

桜花は1081航空隊分隊長大田正一特務少尉が、日本軍が無線誘導の対艦ミサイルを開発中であるという情報を聞きつけたときからその歴史が始まった。大田はその情報を聞くと、開発中の三菱名古屋発動機製作所に計画の進捗を確認したが、実用化に程遠いことを知る。

そこで、大田は開発困難な誘導装置を諦めて人間が操縦する「人間爆弾」にした方が実用化は早いと思い立つと、異常な行動力を発揮し東京大学航空研究所の協力も取り付けて、1944年6月には海軍航空技術廠に提案、そして8月には海軍航空本部に東大教授の協力を得て作成した図面や私案も提出した。この頃、海軍中央でも悪化する一方の戦局の挽回策として、特攻兵器の導入が本格的に検討されていたときで、大田の提案は正に渡りに船であり、トントン拍子に開発が決定した。大田の「自ら搭乗する」という熱心な説得も技術者たちを揺り動かしたが、桜花の開発に協力した施術者の中には、多くの日本海軍機の開発に携わった山名正夫技術中佐や、戦後に新幹線の開発に携わった三木忠直技術少佐なども含まれていた。


桜花は弾頭に1.2トンの大型徹甲爆弾を搭載し、1発の命中で空母や戦艦といった大型艦にも致命的な打撃を与えうる威力を持たせる代わりに、他の部分は徹底した軽量化を図る目的と、なるべく貴重な金属を節約するために木材が多用され、主翼はベニヤ板となった。

また、迎撃機を振り切るためと、突入速度を上げて貫通力を増大させるため、なるべく高速飛行させようとロケットエンジンを搭載することとしたが、太田が想定していた特呂二号薬液ロケット・エンジンは開発途中であったため、火薬ロケットエンジンが搭載された。


いずれにしてもロケットエンジンの最大の欠点はその噴射時間であり、1基あたりせいぜい9秒程度の噴射時間しかなかったので、運用としては陸上攻撃機などの母機に搭載して可能な限り敵艦隊に接近し、母機から射出後は滑空で敵艦隊に近づいて、最終段階で初めてエンジンに点火して自由落下スピードに火薬ロケットエンジンの推力を加えた最高速で突入するというものであった。


機体の開発と並行して桜花に搭乗する特攻隊員の志願者が募られた。この志願者の募集は、最初の特攻と言われる第一航空艦隊司令長官大西滝次郎中将が編成した関行男大尉ら神風特別攻撃隊よりも2ヶ月も早かった。桜花隊の編成準備委員長は、以前から航空特攻開始を進言してきた岡村基春大佐となったが、岡村は多くの志願者の中から飛行時間1,000時間を超えるような熟練搭乗員を中心に選抜し、岡村と選抜された桜花隊員によって、1944年10月1日に第721海軍航空隊(通称神雷部隊)が編成された。


運用

1式陸攻+桜花+零戦

前述した通り、桜花は自力での離陸ができなかったために、一式陸上攻撃機一式陸攻)を改造した専用の母機に吊るされて離陸し、アメリカ艦隊の集結している海域近くまで近づくと切り離され、そこから推進する方法を取った。だが、最大搭載量800kgで設計された一式陸攻にとって、全備重量2.3トン弱の桜花は非常に重く、限界ギリギリの重量となっており、離陸後の最高速度は300km/h以下に落ちたといわれている。(通常時の一式陸攻の最高速度は約400km/h前後だった)


神雷部隊の司令となった岡村や、桜花を輸送する一式陸攻隊の隊長の野中五郎少佐(よく勘違いされるが野中自身は特攻隊員ではない)はその弱点を十分に理解しており、軍令部に作戦成功のためには、神雷部隊陸攻隊2個中隊18機の4倍となる最低72機の護衛戦闘機が必要であると申し出て、支援の約束を取り付けている。「この槍使い難し」「おれは桜花作戦を司令部に断念させたい、攻撃機を敵まで到達させることができないことが明瞭な戦法を肯定するのは嫌だ」「こんな軽業みたいなもの兵器じゃねえ」と不満をもらしていた野中も、大量の護衛戦闘機準備の約束を取り付けた岡村の「桜花攻撃には、日本中の戦闘機をかき集めて陸攻隊の援護にあたることになっている。軍令部の約束でな」という説明に一旦は納得していたという。


桜花の初陣は、沖縄戦に先立って西日本の日本軍の飛行場や港湾を攻撃するため日本近海に来襲した米海軍機動部隊の迎撃作戦になった。1945年3月18日からのちに九州沖航空戦と呼ばれるこの戦いは、西日本各地で激しい海空戦が戦われ、艦載機の大編隊で日本本土を爆撃する米海軍機動部隊に、特攻も含めた日本軍が猛攻を加えて、正規空母フランクリンワスプを大破させるなど(特にフランクリンは沈没寸前まで追い込まれた)の戦果を挙げたものの、日本軍の航空機の損失も大きかった。


3日目の3月21日までは桜花の出番はなかったが、損傷した空母3隻で構成される空母群が落伍して後退中であるとの偵察機の報告を聞いた第5航空艦隊司令長官宇垣纒中将は、その空母群に止めを刺すチャンス到来と判断して神雷部隊に出撃を命じた。命令を受けた岡村は約束通りの数の護衛戦闘機を司令部に要求したが、2日間に及ぶ激戦で戦闘機の消耗も激しく、希望を大きく下回る55機しか護衛戦闘機を準備できないと告げられた。


約束を破られて憤慨した岡村は参謀長の横井俊之大佐に「もっと護衛戦闘機をいただけませんか?」と食い下がり、横井も岡村の意をくんで宇垣に作戦中止も進言したが、宇垣は岡村の肩を抱くと「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と告げた。この宇垣の態度ですべてを察した岡村は「ハッ、やります」とだけ言い残して出撃を決意したという。十分な護衛戦闘機もない状況では非常に困難な作戦となることは明白で、岡村は司令官の自分が自ら出撃したいと考えて、野中のところに行くと「今日は俺が行く、行かねばならぬのだ」と指揮官を交代して自分が出撃すると告げたが、その言葉を聞くや野中は顔を紅潮させて「お断りします。司令、そんなに私が信用できませんか!今日だけはいくら司令のお言葉でも、ごめんこうむります」と反論し出撃を譲らなかった。野中の烈しく一本気な性格を知り尽くしていた岡村は、野中が決意を曲げることはないと諦めて、出撃を委ねている。


出撃を直訴した野中であったが、作戦の成功については絶望視しており、部下に「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは湊川の戦いだよ」と言い放ったが、野中一家と自称していた一式陸攻隊と桜花搭乗の特攻隊員を前にすると「待ちに待った時がきたのである。日頃鍛えに鍛えた訓練の成果を示す時が来たのである。戦わんかな最後の血の一滴まで国に捧げる時が来たのである。諸士の健闘を望む。」と勇ましい訓示を行い、勇壮な陣太鼓が鳴らされる中、一機、また一機と出撃していった。


護衛戦闘機には神雷部隊の戦闘機隊のほか、開戦以来の歴戦の戦闘機隊隊長岡嶋清熊少佐率いる戦闘第303飛行隊の零戦も同行したが、55機しかいなかった零戦がさらに故障などで23機が引き返し、最終的に野中隊を護衛している零戦はわずか32機となってしまった。その頃に第5航空艦隊に偵察機から新たな情報が寄せられ、敵艦隊は損傷した3隻のみの空母群が1群と報告していたが、近くにさらに2群の空母群が発見されて、敵艦隊は合計3群9隻以上の敵空母で構成されており、大兵力であることが判明したというものであった。予想外の大兵力に、野中隊の撤退を進言する参謀もいたが、宇垣は「すでに必殺必死を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」と言って作戦の続行を指示した。


白昼堂々と突き進むこの時期の日本軍らしからぬ大編隊は、すぐに米艦隊に発見されて合計24機のF6Fが迎撃に出撃した。F6Fは米空母の戦闘指揮所からレーダー誘導されて、日本軍編隊の上方の有利な位置で待ち構えた。そして野中隊と護衛戦闘機が接近するや、急降下で襲撃した。奇襲となったF6Fの攻撃に、まず護衛の零戦が次々と撃墜されて蹴散らされた。歴戦のエース岡嶋も敵の奇襲に自分の身を守るのが精いっぱいであった。護衛戦闘機と分断された野中隊はチャフを散布しながら急降下でF6Fを躱そうとしたが、桜花を搭載した身重の機体では十分な回避行動はとれず次々と撃墜されていった。最後は野中が作戦中止を命令し、桜花を投下して180°反転し退却しようとしたが、それでも次々と撃墜され、結局、野中隊の18機の一式陸攻は桜花と共に全滅するという最悪の結果に終わった。

音速雷撃隊 桜花搭乗員

この初回の失敗が桜花の評価を地に落とし、現代に至っても役に立たなかったダメ兵器とのレッテルを貼られている原因ともなっているが、司令の岡村は、この大きな犠牲から、「護衛戦闘機はあてにならないこと」「昼間堂々の大編隊による攻撃はかえって敵の迎撃を激しくすること」という貴重な教訓を得て、「出撃は夜間、攻撃は黎明として敵の迎撃を困難にさせる」「大編隊は組まず、単機もしくは少数による編隊で出撃して敵の迎撃を分散させる」という対策を講じた。そのため、桜花の航続距離まで敵艦隊に接近できる一式陸攻も出るようになった。

初の戦果は第3回出撃時となり、9機の一式陸攻で出撃した桜花隊は、アメリカ海軍の駆逐艦マナート・L・エベール(USS Mannert L. Abele、DD-733)を撃沈、同スタンリー(USS Stanly、DD-478)を大破、同ジェファーズ(USS Jeffers, DD-621)の至近で爆発して損傷を被らせている。マナート・L・エベールは艦中央に桜花が命中し爆発、艦体が真っ二つに折れて轟沈という桜花の威力をまざまざと見せつけるものであったが、スタンリーについては艦首に命中した桜花が貫通して反対の海上に飛び出したため沈没を逃れている。桜花は元来、戦艦や空母といった装甲の厚い艦を目標に想定し遅発信管を装備していたため、駆逐艦程度の装甲では信管が作動しないことがあった。しかし受けた損傷は深刻でこの後に完全に修理はされず予備艦行きとなっている。


沖縄で鹵獲した桜花を徹底的に分析してその兵器としての潜在能力を懸念していた米海軍であったが、実際に損害を被ると更に詳細な分析を行っている。マナート・L・エベールとスタンリーの艦長らに詳細な報告書を作らせるとそれを「トップシークレット」扱いにして徹底的に調査をしたが、報告書には艦長らの感想として「それは今まで目にしたどんな飛行機よりも速かった。」とか「このミサイルが艦艇装備の自動火器の射程内まで接近しても、何物もその突進を停止させたり、その方向を変換させるのは無理である」などと記述されていた。


調査の結果、米海軍は「桜花は人間という最高の制御誘導装置を備えた、潜在的に最も脅威となる対艦攻撃兵器である。」と評価し「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」と全軍に徹底することになり、桜花母機に対する迎撃はさらに激化することなった。それでも、桜花の出撃は繰り返されて、第7回では掃海駆逐艦シェイ(USS Shea 、DM-30)に1機が命中、これもスタンリーのときと同様に桜花の断頭が散々艦内を破壊したのち、貫通して海上に飛び出して沈没は免れたが、修理に1年弱を要する深刻な損傷を被って桜花の威力を見せつけた。他に駆逐艦2隻にも至近爆発で損傷を被らせている。第8回には駆逐艦ヒュー・W・ハドレイ(USS Hugh W. Hadley、DD-774)に命中、この時は弾頭が艦内で爆発して、あまりの大ダメージに艦長が沈没必至と判断し総員退艦を命じたが、一部の乗組員が命令に従わず艦に残り、神業的なダメコンで艦を沈没から救っている。しかし修理できるレベルの損傷ではなく速やかにスクラップとなった。


桜花が戦果を挙げるようになると、一度母機から射出されると実質的には迎撃は不可能な桜花は米軍兵士にとって大きな脅威となり、太平洋戦争で従軍記者として取材経験もある作家ジョン・トーランドは、「桜花をBAKAと蔑んでみても、アメリカ軍艦隊全体に広まった恐怖は決して和らぐことはなかった。」と当時の米艦隊の状況を著書に記述している。また、海軍ではないが、日本本土空襲で日本に襲来するB-29の戦闘報告に「BAKA」がB-29を迎撃してきたとする報告がなされている。これは三号爆弾の噴煙などを見間違えたものと思われるが、それだけ桜花が米軍兵士の中で大きな存在となっていた証左でもあるだろう。


その後も第10回まで桜花の出撃は続けられたが戦果はなく、生存者と残った桜花本土決戦のために温存されたが、出撃することはなく終戦となった。また、ジェットエンジン搭載型など本土決戦用の桜花の開発も進められ、桜花が発射される地上基地の整備も進んでいたが、終戦まで完成することはなかった。

米軍は、桜花がジェットエンジンに換装されることや、地上から射出されるように改良されることを正確に予測しており、日本本土上陸作戦ダウンフォール作戦に向けて、高速の桜花を迎撃できるジェット機の艦載戦闘機の開発の加速と、対空打撃力向上のため3インチ両用砲の開発を進め、結局は桜花に対して使用することはなかったが、その後の米海軍の主戦力や主兵装となった。


桜花を発案した大田は「自分が乗っていく」と航空本部や技術者たちに宣言していたが、操縦士の適性試験に不合格となり、操縦士になることができなかった。桜花開発者として不遜な態度をとるようになっていたとか、適性試験に不合格となり精神的に不安定となっていたとか色々と噂されていたが、終戦になると、遺書を遺して零式練習戦闘機でどこかに行ってしまったため、そのまま自決したものと判断されて戸籍も抹消されたが、後日、海上に墜落したところを漁船に救助されて、生きていたことが判明している。そのまま戸籍を偽ったまま生活を続けて天寿を全うした。


桜花特攻を指揮した岡村は復員省で部下の復員を支援しながら、休みには自費で特攻隊員の慰霊巡りをしていたが、戦後処理の目途もついた1948年に最初に特攻を上申した千葉で線路に飛び込み鉄道自殺を遂げた。 遺書などはなかったが、自殺前はまるで肩の荷が下りたように穏やかにしていたとのことで覚悟の自殺だったと推定される。

三木忠直技術少佐と桜花と新幹線

桜花の主任設計者であった三木は、桜花を設計し多くの特攻隊員を死なせた悔恨から、航空技術者を辞めて、戦後復興に寄与しようと鉄道技術者に転身した。その集大成が復興日本の象徴となった新幹線であり、三木は航空技術者時代に培った空力性能の知識などを駆使して、流線型の航空機のようなフォルムを持つ新幹線を完成させている。


戦果

センシティブな作品

特攻兵器として開発された桜花であったが、合計10度に渡る出撃の結果、桜花パイロット55名、一式陸攻などの母機の搭乗員に368名の戦死者を出した。

合計10度に渡る出撃の結果、関係者に400人を超える死者を出しながら挙げた戦果は、上記の通り駆逐艦1隻撃沈、2隻大破除籍、1隻大破、3隻損傷、米軍兵士150人戦死、255人負傷の死傷者405人となる。

航空特攻全体では、約4,000人の特攻隊員戦死者に対して、連合軍兵士は7,000人~12,000人が特攻機により戦死、10,000人~33,000人負傷(諸説あり)と人的なキルレシオでは効率の良かった特攻の中では非常に見劣りする結果となっており、犠牲に見合わない戦果であったとされている。


しかし、桜花が戦果を挙げたのは、上述の通り敵に近づくこともできずに全滅した第1回目の教訓で戦術を大きく変更した第2回目となっており、第1回目の損失となる一式陸攻+桜花18機と160人の戦死者を除外し、戦術を変更した第2回目以降で作戦の有効性を検証すれば、34機の損失と263人の戦死者により、4機の命中、3機の至近命中の戦果をあげたため、命中率11.7%、有効率20.6%で、航空特攻全体の有効率18.6%を上回ることとなり、また人的損失も米海軍に被らせた人的損失の方が大きいことになる。従って第1回目から「出撃は夜間、攻撃は黎明として敵の迎撃を困難にさせる」「大編隊は組まず、単機もしくは少数による編隊で出撃して敵の迎撃を分散させる」とする戦術をとっていれば、米海軍にさらに損害を与えた可能性は高い。


また、第1回目の失敗にしても、野中隊を迎撃した米海軍戦闘機隊は、帰還した零戦隊からの報告で50機以上とされていたが、米海軍の戦闘記録によれば、当初は正規空母ホーネットと軽空母ベローウッドから出撃したF6Fが8機ずつの計16機に過ぎず(あとからさらに8機が増援で到着)、予定通りの72機の零戦が護衛についていれば、奇襲を受けたとしても、数でF6F隊を圧倒して、野中隊が米艦隊にさらに接近し、何らかの戦果を挙げていた可能性もあり、今日の日本では「失敗作」という評価が一般的ながら、運用次第では十分に戦力になっていたものと思われる。


しかし、海軍の期待ほどのはたらきは全くできなかったのも事実であり、これは桜花が最後まで航続距離という最大の弱点を克服できなかったことや、米海軍がその潜在能力を恐れて優先的な迎撃対象としていたことがその原因となった。徹底した対策により被害を最小限に食い止めた米軍は、戦後の報告書で「この自殺兵器の使用は成功しなかった。」との総括をし、その要因を「母機の脆弱性が制限要素となった。」と断じたが、その兵器としての潜在能力に対する評価は依然として高く、アメリカの著名な歴史研究家サミュエル・モリソンは、桜花について「小型なことと、とてつもないスピードのため、BAKAはわが軍の艦船に対する最悪の脅威となった。それは、ロンドンを襲ったドイツの誘導ミサイルにほぼ匹敵する脅威となった。」と述べ、沖縄戦で従軍記者として取材した、ピューリッツァー賞も受賞したこともある軍事評論家ハンソン・ボールドウィンは、「Bakaは人間が誘導装置となった誘導ミサイルであって、戦後にミサイルの完成によって現実化した水上艦艇に対する脅威を予見したものであった」と評している。


技術は受け継がれた?

戦後、アメリカ軍のX-1実験機が世界初となる水平飛行での音速突破に成功した。このX-1はロケットエンジンを搭載し、母機となるB-29に搭載され空中発進するという、桜花と似た方式を取っている。

Yeager's Triumph

設計に携わった三木忠直は昭和30年代、ドキュメンタリー映画でB-29から切り離されるX-1を見て、「桜花の技術を使っている!」と察したという。ただこれは当人の『技術者の勘』以外に根拠はなく(本当だったとしてもアメリカ軍の立場では「特攻機の技術を使った」などと公表はできないだろう)、また大型機から小型機を発進させるという発想は桜花以外にも存在したため、真偽は不明である。

しかしX-1のパイロットを勤めたチャック・イェーガーは三木との会談で「可能性はある」という発言をしており、また時期的に考えてもあり得る話ではある。


余談

桜花はときの文豪と縁があった。

沖縄戦で特攻機の基地となっていた鹿児島県鹿屋基地に、川端康成山岡荘八新田潤などの文豪らが海軍の要請により従軍記者扱いで取材のために滞在したが、そのなかで戦後にノーベル賞の文学賞を受賞した、小説「伊豆の踊子」などで名高い川端は、海軍からの要請にあまり気乗りがせず「原稿は書かなくてもいいんですよね?」と念押しし、海軍の担当者から「皆さんにはよく見てもらうだけで結構、将来的に日本の若者たちのために書いてくれればいい」との約束を取り付けて鹿屋に赴いている。

実際に1か月程度鹿屋に滞在した川端は特攻に関する記事を殆ど書かなかったが、唯一書いたのが朝日新聞の桜花に関する記事「霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る」だけであった。この記事は戦時中らしく「神雷(桜花)こそは実に恐るべき兵器だ、この新鋭武器が前線に来た時、わが精鋭は勇気百倍した」「これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ!」「神雷さへ十分に威力を発揮できたらすべての敵艦はことごとく葬り去られ神風の再現ができる」などという勇ましい言葉も並んでいるが、川端が桜花を実際に見て抱いた印象を「親飛行機の胴体に抱かれて行く、いはば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の型をしてゐて色彩も優雅で全く可愛い」と書いているのが興味深い。

殺風景な軍事色一色の兵器が並ぶ最前線の飛行場で、独特の鮮やかな彩色で塗装してあった小さな桜花は、日本の美を書き続けた文豪川端の心の軸線に触れたものと思われる。

川端康成

川端が鹿屋を引き上げたあとも山岡は残ってNHKが放送した神雷部隊の特別ラジオ放送の司会進行やインタビュアーなども務めたが、第10回目の出撃を終えて、神雷部隊司令部も後方に撤退することが決定したときに東京に帰っている。最後の日に山岡が司令の岡村を訪ねると、岡村は戦死した隊員の祭壇の大量のお供えものを山岡のリュックサックに詰め込んで「東京は大変と聞いているから家族の為に持って帰ってあげなさい」と言葉をかけている。このときの恩を感じていたからか、戦後に山岡は岡村と何回か面談しているが、会うたびに岡村は、第1回目の出撃で隊長を野中と代わってやれなかったことを悔やんで目を涙でいっぱいにしていたという。その後に岡村は覚悟の自殺をしている。


バリエーション

軍部は本土決戦用の重要な戦力と位置付けて、さらなる改造と量産を進めていた。

21型

作戦の成功率を高めるた

め母機を銀河に変更したもの。自重の軽減のため、爆弾の搭載量を減らしている。(1200kg→800kg)試験段階で終戦を迎えたため、実戦には参加していない。

22型

発進後の飛行距離の増大を目指して、エンジンを改造したもの。

21型と同じく試験段階で終戦を迎えたため、実戦には参加していない。

33型

母機をさらにパワーのある連山に変更したもの。また、桜花のエンジン自体も改良されたが、こちらは、連山自体増備されなかったため、量産されなかった。

43型

ジェットエンジンを搭載し、200km近い航続距離を得たタイプ。陸上にある専用カタパルトから、発進する予定で開発された。エンジンや燃料タンク設置のために、爆薬は600kgに減らされた。練習型および多くの発進基地は完成しており、実戦機も大量生産への秒読み段階にあった。とされている。


登場作品

  • 音速雷撃隊

漫画銀河鉄道999』でおなじみの、漫画家松本零士は『戦場まんがシリーズ』において『音速雷撃隊』という作品を出している。後に『ザ・コクピット』のタイトルでOVA化もされた。

『虚空弾道1945』には20mm機関砲4門を装備した架空の迎撃機型が登場している。

終盤では特攻隊を題材にした部分があり、桜花も大々的に扱われている。

映画版では登場しなかったが、山崎貴監督は出来れば描写したかったと語っている。

外観は史実の桜花に酷似しているが、こちらは戦時増産型噴式迎撃戦闘機(名の由来は同一、もしくは上記の特攻機からと思われる)。

先行して開発された蒼莱が大量生産に適さなかったため、生産性と整備性を高めた迎撃戦闘機として開発された。カタパルトから射出され胴体下のスキーで着陸する。

原作では史実の桜花に背負い式のジェットエンジンを付加したような武骨な姿で、コミック版では「予想図」として描かれた姿は原作と同じだったが実際に登場した際には両側にインテークを付加してエンジンを内蔵式にし、より史実の桜花に近いシルエットになった。OVA版でもコミック版と同様の姿になっている。

武装は原作ではコックピットの背後に斜めに配置された40mm機関砲1門、コミック版・OVA版では機首に正面方向に配置された40mm機関砲1門となっている。

初戦で本土空襲を狙ったナチスドイツ軍のヨルムンガンド爆撃機10機を、5機で全機撃墜する戦果を挙げた。

桜花を搭載した一式陸攻である「桜花搭載機」が日本軍キャンペーンの最終ミッションを最高評価でクリアすると開放されるいわゆる「クリア後特典」という扱いになっている。

しかし、使える場所は戦争初期の「マレー沖海戦か「ガダルカナル島防衛」(史実と異なり戦況はミッドウェイ海戦の勝利後なので日本優勢)に限られる。

米軍キャンペーンでは硫黄島と最終ミッションの沖縄戦で出現。特に沖縄戦では無限出撃して来る。

そしてゲームバランスの問題か、飛行場に着陸せずとも時間経過で桜花が再装填される


関連タグ

桜花 特攻 自爆 爆弾 大日本帝国海軍 太平洋戦争 空中空母

龍鳳:戦争末期に桜花の輸送艦として使用されていた航空母艦。

雲龍:航空母艦として建造されたが、パイロットや艦載機が払底していた為に本来の役目を果たすことはできず、桜花の輸送任務中に潜水艦の雷撃に遭い、誘爆を引き起こして沈没している。なお、雲龍の出撃はこれが最初で最後である。

信濃:大和型戦艦3番艦を改装した航空母艦。艤装工事のために横須賀から呉へ回航中に米軍の潜水艦アーチャーフィッシュによって撃沈されるが、この時貨物として爆薬・燃料を搭載していない桜花を50機ほど搭載していた。信濃沈没時に桜花が海面に浮かび、多くの乗組員が掴っている光景が目撃されている。

オウカオー

オウカオー:『リーンの翼』に登場するオーラバトラー。桜花が名前のモデルであり、更に搭乗者自身もかつて桜花に乗っていたという設定を持つ。

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