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生没年 天保11年10月16日(1840年11月9日)~明治33年(1900年)8月23日

2代内閣総理大臣


経歴

薩摩藩の下級武士の家に生まれる。初め了介と名乗る。剣の達人でありながら生麦事件でイギリス人に斬りかかろうとした藩士を止めている。薩長同盟では西郷側の使者となった。

陸軍軍人として戊辰戦争に従軍し、鳥羽・伏見の戦い箱館戦争などに参加した。特に箱館戦争では参謀として重要な役割を担い、榎本武揚率いる江戸幕府の残党を五稜郭に追い詰めて降伏に持ち込ませた。


明治になってからは樺太で勢力を拡大していたロシアを脅威と考え、樺太を見切り北海道の開拓事業に力を入れ、同地の開拓を行う官庁として設立された開拓使で活躍した。しかし、開拓途中で開拓使が廃止されそうになったため、開拓使の部下達に起業させ、そこに開拓使の持つ施設や設備を安値(費用の約30分の1)で払い下げて開拓事業を継続させようとした(開拓使官有物払い下げ事件)。だが、これが世論の反感を買ってしまい、一時閑職に追いやられた。


しかし、その権威が失墜する事は無く、日本最初の内閣(第1次伊藤博文内閣)で農商務大臣を務めた後、1888年(明治21年)、伊藤の後を継いで総理大臣に上り詰めた。


1889年(明治22年)首相を辞任する折、明治天皇から「元勲優遇」の詔を受け、晩年は他の元老(伊藤、山県有朋西郷従道松方正義井上馨大山巌桂太郎西園寺公望)とともに政界で重きをなした。もっとも、酒の上での乱行が多かった(後述)ことから人望がなく、薩摩閥の中では浮いた存在であったと言われている。元老の中では最も早い明治33年(1900年)8月に没している。


人物

情に厚い人柄で独特の度量があり、大隈重信後藤象二郎の丸め込み工作など、対立していた人物を引き込む能力には長けていた。幕府残党を率いて罪を問われた榎本武揚の才能を惜しんで、榎本の復権に動いたことでも知られる。一方で、不可解な理由で民間人を事故死させた挙句、責任を部下になすり付けた祝津村砲撃事件等、有能な者には政敵であろうと優しい反面、無力な弱者には身内であっても酷薄であった。


ひどい酒乱としても世間に知れわたっており、飲めば大暴れする人物だったと言われている。そのため、黒田の妻が死去した時も「黒田が酔って切り殺した」という醜聞が流され、警視庁のトップであった川路利良が、医師と共に妻の遺体を掘り起こして立証したと言われている。


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明治 元老 政治家 明治時代の内閣総理大臣 薩摩藩 大久保利通

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