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甘利虎泰

あまりとらやす

甘利虎泰とは、甲信地方の戦国武将。甲斐武田氏の譜代家老として、武田信虎・晴信の二代に亘って仕え、甲斐統一や版図拡大に貢献した。(1498年?-1548年)
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概要

戦国時代に活躍した甲斐武田家武将

甘利氏は甲斐源氏武田氏の庶流。武田信義の孫である甘利行忠を祖とする。行忠は甲斐源氏弱体化を狙う源頼朝によって父・一条忠頼や兄・飯室朝忠と共に誅殺されている。子孫は叔父の板垣兼信(信義の三男)の子孫である板垣氏などの武田庶家と共に武田宗家の家臣になっている。虎泰は譜代家臣として武田信虎晴信父子に従い数々の合戦に参加し、信虎時代の「武田四天王」や、後年の軍記などにおける「武田二十四将」の一人としても数えられる。また軍学書『甲陽軍鑑』においても、信虎時代に活躍した武将・荻原昌勝に劣らぬ剛の武者と評されている。

他方でこうした高い評価に比して、その来歴や行政責任者としての実務を示す資料は極端に少ない。そもそも甘利氏自体も行忠から虎泰までの間の事績がほとんどわからない上に虎泰自身も不明な点が多く、両職(武田家中の最高職位)の相方だった板垣信方以上に、その実像は未だ定かとなっていない。史料上ではっきりと確認出来る事績としては、「高白斎記」の甲府へ屋敷を新築したときや、諏訪郡上原城代の板垣信方へ晴信の上意を伝える使者を務めた時の、西郡鷹尾寺へ禁制を与えた際の文書があるのみである。


天文10年(1541年)の晴信や信方が主導した信虎追放事件では、予てより晴信の才覚を見込んでいたこともあり飯富虎昌原虎胤達とともに晴信や信方に同調したと伝わっている。ただし積極的だった信方と違い、主君である信虎を追放する事が天道に背く振る舞いではないかという懸念を抱いており、虎泰は武田氏の守護神・八幡大菩薩と重宝「御旗・楯無の鎧」の前で籤を引き、その結果が吉と出た事で同調を決意したとされる。

晩年に至っても晴信の信濃侵攻に尽力し、天文16年(1547年)の志賀城攻めでは、関東管領上杉憲政が志賀城救援のために派遣した援軍を、板垣と共に別働隊として迎撃し、小田井原でこれを撃破せしめている。翌天文17年(1548年)に村上義清との間で繰り広げられた上田原の戦いにも参加している。先陣を務めた信方を討ち取って意気盛んな村上勢の猛攻から晴信を守るべく、才間信綱初鹿野伝右衛門らと共に奮戦、遂に討死したという。


虎泰死後の甘利家

虎泰には三人の男子がいたが、長男の信益は父に先立って戦死していたため虎泰の死後、甘利家の家督は次男の信忠が継いだ。信忠は永禄10年(1567年)に亡くなったとされ、その後は長男の信頼が継いだ。しかし、信頼は幼少だったため虎泰の三男の信康が名代を務めた。しかし、信康は長篠の戦いで敗れた際に自決してしまう。そして武田氏滅亡とほぼ同時期に戦国武将としての甘利氏の動向は史料上からは窺えなくなった。


関連タグ

戦国時代 戦国大戦

甘利明 - 虎泰の子孫の一人とされる。

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