概要
武田四天王とは甲斐源氏嫡流甲斐武田家第十九代当主・武田信玄(晴信)及びその後継者・勝頼に仕えた事で有名な山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、春日虎綱(高坂昌信)の四人の戦国武将を指す。
四天王一覧
山県昌景
有名な赤備えの大将。生年は諸説あり、1515年又は1529年。旧名は飯富昌景であり、飯富虎昌は兄(もしくは叔父)。
信玄の長男・義信が虎昌と共に信玄に対して謀反を企んだため、昌景はこの事実を信玄に密告し、虎昌は自害。昌景は虎昌が率いていた赤備えを引き継ぎ、氏を飯富から山県に改名した。
各地で転戦し武田家の勢力拡大に大きく貢献した。ちなみに昌景は低身長で有名で約120cm余りだったという説もある。明知城の戦いでは、信長を後一歩まで追い詰めた。1575年に起こった長篠の戦いで織田・徳川連合軍による追撃によって討ち死に。
馬場信春
四天王のなかでも最古参であり百戦錬磨の老将。生年は1514年または1515年。
官位が美濃守である事から「不死身の鬼美濃」と恐れられた。
第四次川中島の戦いでは別働隊を指揮し、三増峠の戦いでは北条軍を切り崩した。長篠の戦いでは殿軍を務め討死した。「信長公記」にて、「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と高く評価された。
内藤昌秀
生年は1522年。
主に西上野方面を担当し、三増峠の戦いでは補給隊を指揮し後援を行った。長篠の戦いで討死した(生存説も存在する)。
春日虎綱(高坂昌信)
武田家屈指の猛将。生年は1527年。
百姓の身から武田家の重臣にまで上り詰めた人物。北信濃方面を任され、海津城代を歴任した。退却戦を得意とし「逃げ弾正」と渾名される。
四天王のなかで唯一長篠の戦いにおいて討死していない(戦いに参加していない)。
長篠の戦いの戦後処理も担当している。主に家臣団の再編と、戦場を途中離脱した武田家一門衆の穴山信君と武田信豊に敗戦責任を取らせるため切腹を申し立てたが、(内部対立を避けるために)実現しなかった。他にも上野衆の小幡家の所領と西信濃の木曽家(武田家の一門衆)の領地転換も進言している(これも実現しなかった)。(のちに木曽家と穴山家は織田・徳川・北条連合軍に寝返り、武田家滅亡を決定的なものにした。)
虎綱は、武田家滅亡の4年前、1578年に死去した。
余談
全員、苗字を変更した経歴がある(飯富昌景→山県昌景、教来石景政→馬場信房→馬場信春、工藤昌秀→内藤昌秀、春日源五郎→高坂昌信→春日虎綱)。