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王弟謀反編

おうていむほんへん

王弟謀反編とは、漫画『キングダム』におけるストーリーの括りの一つ。
目次 [非表示]

概要

漫画『キングダム』において王弟・成蟜が再度起こした反乱を描く。

作中で最初に起こした反乱は王都奪還編を参照。

史実通りに成蟜の生死に関わる他、史実の解釈を巡ってある人物の生死にも関わる話にもなった(詳細は後述)。


アニメ第4シリーズの最初を飾る話であり、第3シリーズ終了直後のキービジュアルで次は、俺の番だ。のキャッチコピーとともに不敵に笑みを浮かべる成蟜が描かれていた。


本記事のタイトルは『キングダム』のWikipediaの記載を優先した非公式の物だが、史実及び史実のWikipediaの記載は成蟜の乱、アニメ公式では成蟜の変の呼称となっている。



以下はネタバレになります。閲覧には十分注意してください。



秦国の勢力

話は山陽攻略編に遡る。

らが山陽を攻略すべく出征する中、秦国の勢力は、竭氏派を引き入れ僅かながら勢力を拡大した嬴政率いる大王派、呂不韋が束ねる呂氏派、反乱に失敗し捕らわれた成蟜派に分かれていた。

そんな中、実は秦国の上記に含まれない勢力、嬴政の母・太后が長を務める後宮勢力が、突如として大王勢力に書簡を送りつけたのだ。

だが、「出生の闇」にもある通り、嬴政と太后の親子関係はまさに命が懸かるほど劣悪で、書簡の内容が白紙だったことから、太后の意図が汲み取れるものではなかった。

このため本来なら大王以外の使用が国家反逆罪に問われかねない玉璽の返還請求も含め、嬴政は自ら太后に会いに行ったのだった。

その後、大王勢力は後宮勢力を取り込むことに成功したが、すぐに太后は後宮に呂不韋を招き入れ、呂氏勢力に入るように告げたのだ。

この現場を目的していた宮女の向は命懸けで嬴政に伝え、その翌日に大王勢力は呂氏勢力に不義を行ったと流布。

さらに後宮勢力の有力者が呂氏勢力の元に現れたことで、噂が現実味を帯びることとなり、呂氏勢力が大きく揺らぐこととなった。

この状況で呂不韋も太后と距離を置こうとするが、今度は太后が呂不韋の元を訪れ、依然として不義が続いていた。


だが、山陽攻略が終わった頃、不義に嫌気が差した呂不韋は代わりに嫪毐(ろうあい)という人物を後宮に送り込んだ。

これにより呂不韋は太后との関係から解消されたのに加え、後宮勢力の有力者が力を発揮したため、再び呂氏勢力が巻き返しに成功し、丞相から大王の次席と言える「相国(しょうこく)」という地位についた。

このままでは大王勢力はさらに勢力差がついてしまうことから、嬴政は3年間も幽閉していた成蟜と対話。

元々、成蟜は打倒呂不韋の代わりに成蟜派全員の解放を要求し、嬴政も過去のクーデターを許すつもりはなかったため聞き入れなかったが、現状が厳しいため受け入れた。

そして成蟜も嬴政を心底憎んでいたものの、庶民の分際で権力を持つ呂不韋に我慢ならないため結託。

呂不韋が相国になり丞相の枠が2つ空いたのを逆手に取り、右丞相は昌平君だが、左丞相に昌文君をつけることに成功し、大王勢力はさらに実権を得た。


蕞の戦い以後、自ら国民の先陣に立ち武威を示した嬴政及び大王勢力には人が集まり、呂氏勢力と互角以上の勢力になっていた。

それに対抗すべく成蟜派も急拡大し、大王勢力と合わせて僅差で食らいつく状況になっていたが、呂不韋は私財をはたいて他国の有力者を食客として抱え込むことで勢力を拡大した。


ところが、紀元前239年(始皇8年)、趙軍が秦北東部の要所・屯留(とんりゅう)に侵攻。

秦国内に他に将軍がいなかったため成蟜が挙兵し迎撃したものの、なんと成蟜が自身の挙兵した軍と屯留の軍も含めて反乱を起こすのだった



成蟜の変

合従軍編以後も大王勢力を中心に成蟜に対する不信感は拭いきれなかったが、成蟜派はもとより嬴政も、成蟜の心境の変化は感じ取っていた。

成蟜の教育係だった寿白(じゅはく)は、陣営の変化は成蟜と陣営の間に忠義があること、その要因は嬴政にあると語った。

嬴政が蕞の戦いに出向く直前に成蟜は彼と会話をしており、中華統一を語る彼が呂不韋に対して後れを取ることに苛立ちながらも協力しているのは、亡国を食い止めるべく責務を全うし王としての在り方を示したからであった。

また、趙軍侵攻より前に成蟜の第一夫人・瑠衣(るい)が嬴政に対し「玉座だけに固執していた方とは違う。より国を富ますため、強くするための道を真剣に構築している。そんなお方が無駄に国力を削ぐ反乱を起こしましょうや」と語るほど、成蟜の心境は変化していた。

故に成蟜の反乱は誰も予期しておらず、屯留の侵攻の時点から嬴政にとってはひっかかるものを覚え、成蟜は嵌められたと考えたのである。



趙軍侵攻の直前、屯留出身の瑠衣が祖母の祝いのため帰郷。

この様子を見ていた呂不韋が趙国の郭開(かくかい)と裏で繋がり挙兵を画策していた

当時の趙は合従軍の責任を負う形で李牧が一時的に実権を失い、その間に郭開が実力をつけたことで権力争いが激しくなり秦以外の六国の中では特に国内が荒れていたため、挙兵が不審だった。

しかし、屯留は元々は趙国の領土であり、仮に趙に渡った場合は屯留一帯が趙に寝返る懸念があり、何としても近づけてはならないと呂不韋が言及。

ところが、前年に蒙驁が死去、蒙武王翦は別の国に遠征し、桓騎は渡河したばかりで早々に対処できない状況だったことで、屯留に向かえる将軍が不在だった。

そこで呂不韋は嬴政の出陣を提案、昌文君が当然反発する。

他に手がないとこまねく中、成蟜が現れ挙兵を宣言し出陣した。

この出陣の理由は瑠衣を救うためと、屯留出身の瑠衣の存在もあり屯留の人々の間では成蟜が人気であることから民兵を鼓舞しやすい状況もあるが、嬴政のように戦場で自らの実力を示そうとしていると推測された。


屯留城前にて成蟜軍と趙軍が対峙し、僅か半日で成蟜軍が勝利、趙軍は撤退した。

屯留の民の歓喜に沸く中、城主代行の蒲鶮(ほかく)が瑠衣と祖母を拉致しており、成蟜の反乱を進言。

実は蒲鶮は城主代行として屯留城にやって来た1年前から裏で呂不韋と繋がっていた

成蟜が蒲鶮に反抗しようとするも、成蟜軍の将軍以下の兵士にも呂氏派が紛れ込んでいたため成蟜が拉致された。

ちなみに蒲鶮は、1年前から屯留一帯の有力者に金をばらまいて手懐けていたため、有力者を中心に蜂起への同調が急速に拡大。

これにより表向きは呂不韋打倒のため、蒲鶮によって首謀者が成蟜に仕立て上げられた反乱が起こった(成蟜の変)。


この反乱における蒲鶮の利点は、城主代行である彼が屯留の城主として統治できることを呂不韋と約束していた。

また、成蟜を裏切った龍羽(りゅうう)将軍の利点は、討伐軍の総大将を討ち趙へ亡命することで、好待遇を得られることだった。

そして呂不韋の利点は、呂氏勢力が一切動かずとも大王勢力と成蟜派が勝手に弱体化し、勢力差で大王勢力を打倒できることだった。



5日後、反乱の知らせを受け嬴政は成蟜が嵌められたものと推測。

しかし真意については問いただす必要があるため、成蟜を殺す訳にはいかなかった。

このため大王勢力の軍で対処を強いられ、軍と飛信隊に反乱軍の鎮圧を要請した。

先行した壁軍が反乱軍と対峙する直前に、撤退したはずの趙軍が左方から奇襲をかけてくるも、飛信隊の到着により失敗。

趙軍が趙へ撤退し、それを見た反乱軍も屯留へ撤退。

蒲鶮が表向きの総大将・成蟜の首をはねて反乱を終結させるより前に対処しなければならないことから、壁軍は井蘭車を用意し飛信隊とともに攻城戦を展開。

屯留城に飛信隊が侵入した報告を受けた蒲鶮が拉致した成蟜の首をはねようとするも、蒲鶮側の兵を大金で釣った成蟜によって脱獄され、追跡する。

やがて成蟜らは蒲鶮側の兵と交戦し、負傷しながらも地下牢に幽閉されていた瑠衣を救出。

だが、逃走する中で力尽き、瑠衣に助けを求めるよう成蟜は言った。

間もなく蒲鶮は成蟜を発見し兵を差し向け殺そうとするも、逆に成蟜に討たれた。

瑠衣は飛信隊と合流し、倒れていた成蟜を見つけ出す。

辛うじて息を吹き返した成蟜は瑠衣に成蟜派を託しつつプロポーズし、に自身の存在が嬴政の心の支えになると言い、息を引き取った。



蒲鶮・成蟜の死と、壁が龍羽将軍を討ち取り、反乱は鎮圧。

趙軍討伐から成蟜に付いて来ていた成蟜の忠臣らは悲嘆に暮れ、蒲鶮の死体は彼らに辱められた。

瑠衣は遺言通りに成蟜派をまとめ上げ、9割が引き続き瑠衣に従い、大王勢力と一つになった。



余談

詳細は壁(キングダム)にある通りだが、本来壁は史実に登場した人物であるかは定かではない。

達人伝』及び『キングダム』では「将軍壁死」の一文を基に生み出された人物だが、前者は「壁という名の将軍が死んだ」、後者は「城内で将軍が死んだ」と解釈している。

また、龍羽将軍は本作オリジナルのキャラクターであり、「将軍壁死」を再現するためだけに用意された人物である。

同時に龍羽将軍は弓兵によって討たれた訳だが、壁が討ったことにはなっていない※。

それ故に橑陽戦でのロゾ王の討伐が明確な戦果になった。



実は合従軍編以降の昌平君の離反については、この頃から既に兆候が見られていた。

というのも合従軍の侵攻が終わった直後こそ大規模な戦いは起こさなかったものの、蒙驁の死から時間を置かずに桓騎王翦を魏に侵攻させ慶都(けいと)・汲(きゅう)の城を落とさせた後、王翦は魏方面を防衛し、桓騎は趙方面へ侵攻している。

王翦については著雍でも明かされる通り拡陽(かくよう)という要所の防衛に回っており、本来なら著雍攻略時に援軍が要請されるはずだった。

桓騎も後の趙攻略編まで踏まえると、昌平君は既に趙攻略の布石を打っていた(より正確に言えば、合従軍の影響で一時的に止まってしまった侵略計画を再開させた)と考えられる。

合従軍の直後であっても各地の侵攻の手を緩めなかったことは、呂不韋が嘲笑する中華統一に対する明確な否定要素である(もっとも呂不韋はこの嘲笑をずっと呂氏四柱にすら隠していた上、昌平君も当然意図が読めていないため、結果論ではある)。

そして今回の話で飛信隊や壁軍などの大王勢力が屯留に出陣できたのはそもそも昌平君が意図的に彼らを出陣させやすいように秦国近郊に留まらせていたのが大きい。

飛信隊は蕞の戦いの後、秦国領土内のボロボロになった前線の防衛とその前線周辺の村々の復興のため秦国近郊に派遣されていた。

戦国七雄の全てが疲弊しているからと言って防衛しなければ侵略されるのはこの時代の常である上、楽華隊や玉鳳隊も同様の措置が取られているため昌平君の判断は合理的だが、裏事情として呂不韋の不審な動きに対するけん制も考えられる。

飛信隊を加勢させたことは昌平君に許可を取っていない可能性が高いものの、ただ遠方に配置しなかっただけでも飛信隊が秦国内の反乱に対処しやすい状況になっていたのは間違いない。

壁についても大王勢力の昌文君の側近として咸陽周辺に居たようで、王弟謀反編では真っ先に討伐軍として出陣している。

実態は成蟜救出のための反乱鎮圧軍だが、いずれにせよ表向きは昌平君の許可を得て討伐軍として出陣させていると考えて良い。



※ただし肥下の戦いの桓騎のように、本人が直接討った訳でもないのに史実に即しその人物が討ったという形で表現されることはある。この基準は不明。



アニメ第4シリーズのキービジュアルでは成蟜がいかにもな不敵な笑みを浮かべているが、原作や史実を知る人にとっては死亡フラグと解釈できるだろう。

なお、第4シリーズ内での話数は2-5話の4話分のみで、アニメ版ではカットされ1話も再現されなかった刺客急襲編を除くと最も短い話数となった。


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