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弘文天皇

こうぶんてんのう

天智天皇の皇子。西暦672年の壬申の乱で敗れた「大友皇子」のこと。
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概要

大化4年(648年)~天武天皇元年(672年)7月23日

天智天皇の皇子で、大友皇子、伊賀皇子という。天智天皇10年(671年)、父帝のもとで大友皇子は太政大臣、蘇我赤兄臣を左大臣、中臣金連を右大臣が任命され、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣を御士大夫とした。これらの官位・法度を命じる詔が大海人皇子によるものか、大友皇子の宣命によるかは典拠により説がわかれるところである。


天智天皇10年(671年)12月、天智天皇が崩御すると、翌天武天皇元年(672年)、大海人皇子(天智天皇の弟、後の天武天皇)との間に壬申の乱が起こり、大友皇子は戦いに敗れて自害。天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』には、天智天皇9年(670年)に皇太子に立つと記されている。


皇統

葛野王(かどののおう)

  • 妃:耳面刀自(みみものとじ)藤原鎌足の娘

・壱志姫王(いちしひめのおおきみ)

与多王(よたのおおきみ)


実際に即位した?

「天皇に即位した」という記載は当時の『日本書紀』に記載されておらず、『水鏡』や『扶桑略記』には「天智天皇崩御の二日後には皇位を継いだ」とされている。水戸黄門こと徳川光圀が編纂させた『大日本史』もほぼ同様の見方をしている。「天皇即位」を立証しようとした伴信友は『長良の山嵐』において元来『日本書紀』にも同天皇紀はあったが、編纂にあたった舎人親王は父・天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと「大友皇子即位」の記事を省いたのではないかとされ、天智天皇崩御後、皇子が近江朝廷において実権を握り、事実上皇位にあったとする建機が有力視されている。そして明治3年(1870年)、「弘文天皇」の諡号(しごう)が与えられ、「第39代天皇」として歴代の天皇の1人に加えられた。


創作の弘文天皇


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