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平沼騏一郎

ひらぬまきいちろう

第35代内閣総理大臣。明治・大正・昭和時代の司法官・政治家。正二位勲一等。男爵。A級戦犯。
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概要

生い立ち

慶應3年9月28日、津山(岡山県)の士族の家に生まれた。日本が西欧に学んで近代化する途上の時代にあって、平沼は東京帝国大学に進み法学を学んだ。


首相就任まで

平沼は司法省に入省して検事となり、民刑局長、検事総長、大審院長を歴任。汚職事件を摘発して、司法省の地位を向上させた。


明治時代には、民主主義無政府主義共産主義などの外来の思想の流入に危機感を持ち、大逆事件では、検事として幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたとするフレームアップに関わり、全員に死刑を求刑した。


大正時代の関東大震災後、山本権兵衛内閣で首相に懇願されて司法大臣に就任し、政界にも進出。貴族院議員、枢密院副議長となった。また同時期、大正末期の西欧化への懸念にもとづいた新しい高等教育機関である大東文化学院の初代総長を兼務し、さらに日本大学第2代目総長にも就任している。


平沼は道徳観念を国民に広めることを目的とした「国本社」という団体を結成し、日本精神や祭政一致を主張。リベラルな政党政治の確立を目指す元老西園寺公望復古的な言説を嫌い、平沼は神がかりの迷信家として嫌っており、平沼が穏健派扱いされるほど世論が好戦的になるまで元老として首相候補に推薦することはなかった。平沼のほうも英米追従で事なかれ主義の外交を繰り返した西園寺こそ、国を誤る元凶だと嫌っていた。性格的にも、ナイーブでファナティックな平沼と、老獪さがあり調整型の政治家だった西園寺は水と油だった。


平沼内閣

昭和14年1月、政権を投げ出した近衛文麿の強い希望によって、首相に就任。


近衛内閣からの継続色が強く、その施策内容は以前とほとんど変わることがなかった。近衛内閣期の防共協定強化問題、支那事変の処理、国家総動員法の発動、生産力拡充計画の遂行は、そのまま平沼内閣の中心的課題となった。平沼が消極的であった議会・内閣・官吏制度の改革といった国内革新政策も、前内閣で行き詰っていたものだった。


内閣の構成も前内閣を継承し、かつ各勢力との均衡を目指すものであった。

外務大臣を含めた7名が前内閣から留任。内務大臣には宮中との関係を考慮し木戸幸一大蔵大臣には財界との関係を考慮し石渡荘太郎政党との関係を考慮して政友会民政党から前田米蔵桜内幸雄が入閣。また平沼の代わりに枢密院議長となった近衛文麿は、無任所大臣として加わっているという変則的な内閣であった。


平沼内閣最大の懸案はドイツより示された防共協定強化問題であった。ソ連の共産主義が日本に流入することを危惧していたが、平沼はファシズムも共産主義よりはマシだが民主主義と同じく国体を蔑ろにする思想と嫌悪していたので、必ずしも三国同盟が必要と考えてはいなかった。むしろ国内がファシズムに傾倒してしまうことを恐れ、米英との関係を改善することを考えていた。

このような重要な国策は、防共協定の強化のみで済ませたい平沼騏一郎(首相)、大蔵省と宮中を代表する石渡荘太郎(蔵相)、通り一遍のことしか言わない有田八郎(外相)、政府方針よりも陸軍の意思を優先する板垣征四郎(陸相)、日独伊の海軍力で英米仏ソに勝てるわけがないだろうと考える米内光政(海相)の「五相会議」で延々と検討された。


だが昭和14年8月23日、ドイツがソ連と不可侵条約を結んでしまったため、三国同盟問題は頓挫。日本政府を立場を無視したドイツの姿勢に驚き呆れた平沼は28日、「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との声明を発表。就任わずか8ヶ月で政権を投げ出し、総辞職した。


太平洋戦争開戦後は和平論者の一人と目されたが一時は交戦論を唱え、その態度は一貫していない。平沼のこの曖昧な態度は天皇の不信感を招き、戦後の「昭和天皇独白録」では、「結局、二股かけた人物というべきである」と酷評されている。


重臣として

平沼は近衛文麿が推進した「新体制運動」への強硬な反対者であり、新体制運動はファシズムの亜流であるとしてこれを骨抜きにすることに奔走した。その後再び三国同盟締結の動きが熱狂的に起こるが、この時は平沼は猛反対した。


今度の三国同盟推進論者はドイツにならって日本も全体主義の新体制を作るべきとまで主張していたが、以前はあくまで反共のための三国同盟推進だったのであって、ソ連と組むドイツと同盟を結ぶ必要はない。独伊のような全体主義体制は日本の国体に反し、天皇を蔑ろにして幕府を作るようなものであって、論外であると主張。むしろとの協調を唱えた。

しかし革新右翼はこれを裏切りとしか思わず(国内情勢を理由に組むべき相手を変えようとするなど、他国から見てもひどい変節にしか見えなかっただろう)、平沼は西村直という岡山県下の徳森神社の雇い神官に暗殺を謀られ、6発の銃弾を撃ち込まれたが、奇跡的に生き残った。


太平洋戦争前には対英米戦に反対し、アメリカ合衆国との関係修復に奔走した。


昭和20年8月9日の御前会議において、「ポツダム宣言の受諾は条約締結であると捉えるべきだから、枢密院で審議すべき」という陸軍の声を考慮して、通常の「最高戦争指導会議」6名に加えて平沼は枢密院を代表する形で参加することになった。


平沼は優柔不断であると継戦派・終戦派双方から認識されていたが、最終的には、さまざまな懸念を述べたものの大枠では受諾の他なしとした。


終戦後

戦後、平沼はA級戦犯として収容された。平沼は最年長のA級戦犯であった。


極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷では一切何も語らず、超然とした態度だった。

平沼に対する判決は終身禁固刑であり、昭和27年に病気による仮出所後に死去した。


刑務所内では深夜に泣き叫ぶなどの奇行が多く、さらには一貫して戦争非拡大方針の親英米派であった西園寺公望を日本が今日の状態になった元凶であると詰るなど支離滅裂な言動もあったようで、精神が衰弱していたようである。


語録

  • 「人は万物の霊長として天地の気を享く」「人皆天性に従ふ、一家悉く親和して些の矛盾撞着なく長幼男女其所に安んじて各其本務に努むること寔に人の至純なるもの、之を恢弘すれば一国の総親和世界の総親和と為る」(大正4年9月1日)
  • 「吾々人類は天地の徳を享けたのであります。斯様に天地の徳を享けて生れて居りますから、天地と同じ精神で進まねばならぬ。是が即ち人の徳であり、同時に正義であり、又人道であるのであります」(昭和4年3月17日)
  • 「日本の国家としてのよりどころはデモクラシーでもファシズムでもない、デモクラシーの陣営にもファシストの陣営にも日本は属そうとは考えていないが、平和を望むという点で双方の陣営と協調してゆくことを希望している」(昭和14年3月29日、平沼首相の新聞インタビュー発言主旨を電報でグルー大使が米国務省に伝えたもの)

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