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概要

ドワイト・デビッド・アイゼンハワー(英語:Dwight David Eisenhower、1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカ合衆国の政治家。同国第34代大統領。陸軍出身の政治家であり、アイクの愛称で親しまれた。自身の性格・軍人として戦争の残虐性を実感していた為か、大統領の任期中は全体的に穏健な政策を内外で展開していた。その一方で積極性に欠ける政策・後任がインパクトの大きいジョン・F・ケネディだった事もあり、近年では「何もしなかった大統領」と評価される事も多い。


経歴

初期

1890年10月14日にテキサス州デニソンにて、7人兄弟の3番目に誕生する。ドイツ系アメリカ人の家系で、誕生して2年程でカンザス州アビリーンに移住し、高校を卒業するまで同地で過ごした。高校を卒業した後に兄と共に大学への進学を希望するも、経済的理由で困難となった。そこで兄と交互に大学へ通う事になり、最初の年は兄が大学へ通ってアイゼンハワーはバター工場に勤務して学費を稼ぐ事になった。翌年になると兄がもう1年大学へ通いたいと言い出し、アイゼンハワーは再びバター工場で勤務する事にした。そんな中で友人から「軍学校なら学費がかからない。」と言われた事で軍人に興味を持ち、工場を辞めて軍人になる事を決意した。


軍人

陸軍海軍両方の学校を受験して両方に合格したが、海軍は年齢制限で入隊できず、1911年6月に陸軍に入隊した。1915年6月にウエストポイント士官学校を卒業するも成績は平凡なものであった。

国内各地・領地で兵站部、歩兵部隊、工兵隊、合衆国初の戦車部隊である国軍戦車軍団、大陸横断自動車輸送隊などに所属してキャリアを積んだ。1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦した折には海外勤務を希望するも許されず、国軍戦車軍団に配属され初めて部隊を指揮して訓練を行っていたが、戦線投入前に大戦は終わり、戦場で指揮する機会は無かった。

1922年1月から1924年9月まで勤務したアメリカ領パナマ運河地帯では、上官のコナー将軍から軍人として多くの見識を学び、後の高い管理能力を養う上で重要な経験となった。アイゼンハワーを「これまで会った将校の中で最も有能で忠実」と評価したコナーは彼にアメリカ陸軍指揮幕僚大学への入学を勧め、アイゼンハワーも期待に応えて首席で卒業した。コナーは後に『アイゼンハワーを作った男』と称されるようになる。


1933年2月にダグラス・マッカーサーの副官として勤務するようになり、1935年5月にマッカーサーが軍事顧問としてフィリピンに移住すると、アイゼンハワーも副官として指名されて同行した。しかしフィリピンでの扱いはあまり良いものでは無く、マッカーサーのミスを転嫁されて叱られるなど不遇の日々を送る。転勤願いも出していたようだが、手放したくなかったマッカーサーによって握り潰されており、このワンマン上官の下を離脱できたのは1940年11月の事だった。この頃には順調だった階級の昇格は、少佐中佐で停滞して足踏み状態となった。

アイゼンハワーにとっては散々な時期と言えたが、この気位が高く、気難しい上官との付き合いにおいて、彼を反面教師とすると共に人間関係での高い調整能力を身に着けたとされている。


本土へ帰還した後はその管理能力を評価されて参謀として活躍し、師団・軍団・軍と徐々に規模の大きな参謀長職を歴任していった。しかし、上記のように勤務歴が国内や領地ばかりで事務職が多く実戦経験が無かった為、司令官職は回ってこなかった。


1941年12月に太平洋戦争が始まり、フィリピンでの経験を買われて統合参謀本部に招かれると、そこでジョージ・マーシャル参謀総長から信任を得る事に成功し、作戦部長として対ドイツ戦の作戦を立案した。作戦はイギリスを基地とした上陸作戦で、マーシャルはこれを承認し、アイゼンハワーを指揮官としてヨーロッパ戦線へ送り出した。


1942年11月に連合国軍最高司令官としてヨーロッパに着任すると、イギリスフランス各軍の関係者との調整役として活躍し、自己主張の強い将軍達を説得して人員配分を調整した。そして「民主主義のための戦い」を自らの軍兵士に訴えかけ、赴任先の地元住民への対応の改善や綱紀粛正を実施した。戦果としてはモロッコアルジェリアへの上陸作戦(トーチ作戦)や対イタリア戦での勝利があり、これによってイタリアは降伏に至った。このヨーロッパ戦線での仕事の間にアイゼンハワーは大将に昇進しており、マッカーサー時代にくすぶっていた頃からわずか4年のスピード出世だった。


1943年12月にヨーロッパ戦線の各国軍を統括する連合国遠征軍最高司令部が発足する。当初イギリスとアメリカの首脳陣は有能なマーシャルを最高司令官にしようとしていたが、マーシャルの能力は統合参謀本部にとって不可欠なものであり、その為にアイゼンハワーが就任した。着任後もその高い調整能力でウィンストン・チャーチルシャルル・ド・ゴールジョージ・パットンバーナード・モントゴメリーなどの強烈な性格を持つ連合軍陣営の人々を纏め、第二次世界大戦でも有名な戦いの1つであるノルマンディー上陸作戦を成功に導き、終戦による同司令部の解散まで最高司令官を勤め上げ、この戦果によって1944年12月に元帥へ昇進した。中佐から元帥までの出世期間の5年3ヶ月は陸軍史上最速クラスで、アイゼンハワーの軍人としての手腕の高さを物語っている。1945年11月に参謀総長に任命されてアメリカ本国へ帰国し、1950年12月にNATOの初代最高司令官となった。


1952年アメリカ合衆国大統領選挙

1952年アメリカ合衆国大統領選挙に共和党から出馬し、これを理由に全ての軍務から退役する。元々終戦直後から大統領選挙への出馬を待望されていたが、本人に政治家への興味は無く、支持政党すら定かでは無い状態だったので実現していなかった。しかし度重なる説得の末に出馬する事となり、共和党の大統領候補に正式指名された。同党から出馬した理由について、本人は「(出馬時点で)20年間続いた民主党政権の変化を国が求めたから。」としている。


アイゼンハワーはリチャード・ニクソン上院議員を副大統領候補に内定させ、民主党のイリノイ州のアドレー・スティーブンソン州知事とジョン・スパークマン上院議員のペアを442人の選挙人を獲得して破った。


大統領

1953年1月に大統領に就任し、同職にある期間を通じて人気を保持した。1956年アメリカ合衆国大統領選挙では伝統的に共和党の勢力が強い州(テキサス州・テネシー州)の票を維持し、民主党のイリノイ州のアドレー・スティーブンソン前州知事とエステス・キーフォーヴァー上院議員のペアを457人の選挙人を獲得して破った。これによってニクソン副大統領と共に再選し、1961年1月まで2期8年の任期を全うした。


外交

大統領時代はアメリカを代表とする西側諸国・ソ連を筆頭とする東側諸国の冷戦の最盛期とも言える時代であり、ニクソン副大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は共産主義との戦いを指揮・拡大した。一方で当時のジョセフ・マッカーシーを代表とする共和党右派の過激な反共主義者の煽動も存在したが、ジョージ・ケナンによって提唱された封じ込め政策を受け、平和共存と穏健な保守路線を追求した。


内政

自身が軍人時代に不便を感じた事がきっかけで整備した国内の幹線道路や、世帯所得の20パーセント増加など一定の成果は上げている。ただし共和党が政府介入の無い経済による自由発展を推す主義・主張だった為、そこまで積極的な政策は打たなかった。


大統領退任後

1961年1月に大統領を退任した後は、元帥という階級の性質から軍に復帰した。しかし実際にはペンシルベニア州ゲティスバーグで農家として隠居生活を送り、死去するまで公の場にもほぼ出る事は無かった。1969年3月28日にウォルター・リード陸軍病院で、鬱血性心不全によって78歳で死去した。


人物

愛想が良く、穏やかな人柄で人を惹きつけ、バランス感覚に優れたリーダーシップを発揮し、高い調整能力を持っていた。

軍人としては作戦指揮能力は未知数だが、兵站部や大陸横断自動車輸送隊に所属していた経験もあってか後方の兵站を重視し、強烈な個性を持つ国家指導者や上官、部下などを纏める大らかなリーダーシップに優れ、それはソ連軍のゲオルグ・ジューコフ将軍とも良好な関係を築く程であり、その調整能力こそが海千山千の者達が集う連合国遠征軍最高司令部の最高司令官に求められたものであった。

大統領時代は無気力で刺激的でないゴルフ三昧の大統領として批判されたが、米ソ対立を激化させることなく安定させ、ヨーロッパの植民地主義を支援しなかったが、ヨーロッパとの同盟を強化し、共和党を孤立主義とマッカーシズムから守り、アメリカの景気を維持し、予算均衡を保持し、技術革新を促進し、公民権運動をしぶしぶながらも促進させ、軍産複合体の脅威を警告したとして現在では大統領としての人気では上位にある。


核兵器の使用には極めて慎重な姿勢を貫いていた。戦時中の日本への原子爆弾投下についても、当時のトルーマン大統領に対して敗戦が濃厚な日本への使用を直前まで反対し続けていた。自身の大統領の任期中には対共産主義勢力との戦いに苦戦していたインドシナに対し、核兵器を使用するようにニクソン副大統領が提案した事があったが却下している。


ゴルフが趣味で、大統領の任期中も友好関係にある首脳とゴルフに行くなどしていた。


トランプのコントラクトブリッジをウエストポイント士官学校時代から嗜み、フィリピンに居た折にはフィリピン大統領マヌエル・ケソンと定期的にプレイして「マニラのブリッジの魔術師」との異名を頂き、ノルマンディー上陸までのストレスの溜まる日々にも、大統領に就任しても土曜日夜にホワイトハウスでブリッジをプレイした。彼の参謀はブリッジが出来る事が暗黙の了解であったという。


1948年にコロンビア大学の学長に就任したが、その折に油絵に興味を持ち、亡くなるまでの20年間におよそ260点の作品を描いた。


家族

1916年7月にマミー・ジュネーブ・ダウドと結婚し、2人の息子が誕生したが、長男のダウド・ドワイト・アイゼンハワーは猩紅熱で3歳で亡くなり、次男のジョン・アイゼンハワーは陸軍に勤務して准将で退役し、作家となり、駐ベルギーの大使も務めた。


その他

軍服のジャケットを改良するよう指示した事があり、これによって袖口と腰が体にフィットした丈の短いジャケットが導入された。後に企業の制服など民間でもこの様式のジャケットが広まり、戦時中アイゼンハワー本人も愛用していた事もあって「アイクジャケットアイゼンハワージャケット)」と呼ばれる服の一形態となった。


先代・次代

ハリー・S・トルーマン → ドワイト・D・アイゼンハワー → ジョン・F・ケネディ

関連タグ

アメリカ合衆国 アメリカ合衆国大統領 共和党 軍人 アイクジャケット

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