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大日本帝国憲法

だいにっぽんていこくけんぽう

大日本帝国憲法は1889年2月11日に公布された大日本帝国において制定・発布された欽定憲法。
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概要

大日本帝国憲法アジアでは オスマン帝国により1876年発布されたオスマン帝国憲法に次いで制定された憲法である。

1889年2月11日公布、1890年11月29日施行。

明治憲法、帝国憲法、旧憲法とも呼ばれる。


1947年5月2日まで有効であったが、第73条の憲法改正手続により翌5月3日に日本国憲法の施行に伴い無効となった。


制定までの経緯

明治元年の五箇条の御誓文によって、日本国では公議公論によって決定された国民の意思が天皇の裁可をうけることで国家意思となるという大原則が示された。


この後、この大原則と明治維新後の新たな状況を受け1875年4月、「漸次立憲政体樹立の詔」が発せられ、1876年9月には元老院で憲法の起草作業が開始された。


それに前後して、自由民権運動も盛んになったため、岩倉具視は井上毅の起草による憲法綱領を太政大臣三条実美に提出。この綱領によって、五箇条の御誓文以来の欽定方式が確認されると共に、後の帝国憲法の骨子が固まった。


そこで、より具体的な憲法条文を起草するため、それに先立って伊藤博文欧洲に派遣された。


1882年に憲法調査のためヨーロッパへ渡った彼は、ベルリン大学のハインリッヒ・ルドルフ・へルマン・フリードリヒ・フォン・グナイストやウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタインなどから憲法の概要等を学び、彼らに多大な影響を受けた。

 

帰国した伊藤は、制定すべき憲法の前提をなす華族制度や内閣制度を創設した後、西洋法にも明るい井上毅伊藤巳代治金子堅太郎らの協力を得て憲法を起草、草案を作成した。

この草案は枢密院で審議された後、1889年2月11日に制定・発布された。


憲法

憲法第一条の『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』は、幕末の戦乱を経て既に王政復古の時点で定まっていた「天皇を中心とした国」という原則を、明治初年以降の政治経験に照らして、憲法の条文として表現したものである。


また伊藤は枢密院において、第四条の『天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法に依リ之ヲ行フ』から第十六条までの、天皇の大権に関する条項について「皇室を憲法政治の基軸とする」と発言し、憲法運用の基軸としての天皇の権力を出来るだけ制限しないように努めた理由を述べている。ただ、この部分についても文言を「統治ス」では絶対君主制の色が強すぎるとして、古代の天皇の諡号などに使われていてもっと意味の広い「治(シラ)ス」するかでかなり論争があった。


問題点

帝国憲法の特徴は「天皇主権」を原理とする立憲主義の実態を伴わない外見的立憲制であり、当時の欧米各国と比較して周回遅れの産物であった。

また後述の統帥権問題により軍部を止めることができなくなり、最終的に国自体を滅ぼしてしまった。


人権規定

この憲法では言論の自由・結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が保証されているが「人権は国家から与えられる恩恵である」と定義され言論の自由など自由権への法律による制限が容易に可能であった。

権利に対して法による制限が容易だったため、不敬罪や出版法や新聞紙条例、そして後の治安維持法によって政府に対する批判はすべて弾圧粛清の対象となり言論弾圧が行われた。


行政府の非統一性

帝国憲法には内閣総理大臣に関する規定が存在せず、「首相」や「内閣」に憲法上の規程は無く、天皇による大命降下によって組閣され、公選議会による首班指名も存在しなかった。


現行の日本国憲法では首相に他の国務大臣の任免権が与えられているが、帝国憲法ではそれがなかったため、満場一致が大原則の内閣で不一致が起こると、首相は内閣総辞職する他なかった。そのため首相は制度によらず人脈やカリスマという非常に曖昧で不安定なものに依拠してリーダーシップを発揮しなければならなかった。


藩閥政治時代には内閣と陸海軍の間には元勲の存在もあり有機的連係が成り立っていたものの、ソフトに頼りきったこの体制は共に滅びる運命にあった。


統帥権の独立

11条において、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定されており、陸海軍の統帥は参謀総長(後に軍令部総長も)よる輔弼の下、政府から独立して天皇に直属していた。

政府による統制を否定するこの制度は本憲法下における天皇主権を象徴するものである。


そもそも統帥権とは、陸海軍の予算、人事、管理などを司る軍政権と編制、作戦立案、指揮などを司る軍令権に分けられ、前者は軍部大臣に、後者は、陸軍は参謀総長、海軍は軍令部長(昭和に入ってから軍令部総長に改名)に実質委任されており、統帥権=軍令権の意味とされてきた。(軍政の長である軍部大臣が内閣の一員である以上、軍政に関しては天皇大権ではなく内閣に委任された権限となる)


しかし、1930年のロンドン海軍軍縮会議に際して海軍軍令部は軍令部の承認なき調印は統帥権を侵すとして非難。

そこへ野党の政友会も同調し浜口雄幸内閣を攻撃した統帥権干犯問題が発生。

内閣は押し切って調印したが同年11月14日右翼の佐郷屋留雄による浜口首相狙撃事件に発展。

制度的欠陥が軍部の台頭を招くきっかけとなった。


司法権の独立の不徹底

司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これにより司法権は独立することとなっていたが実際は、裁判官は行政官庁である司法省の管轄下にあり、ひいては内閣の影響を受けることになった。


また、パワーバランスは検察に大きく傾いており、独立を謳われているとはいえ、行政に対して風下に立つことが多かった。

これが、司法と行政の必要以上の対立を呼び、同時に、権力が大きくなりすぎるとして統帥権の独立とともに、総理大臣に他の国務大臣の任免権を付与できないことの理由にもなった。


不磨の大典

憲法発布時の勅語などでは、帝国憲法は『不磨の大典』、すなわち完璧かつ不朽ものとされた。加えて欽定憲法であることもあり、言論の自由が無い臣民は改正を口に出すのも制限された。

逆に、天皇は立憲君主制の君主として振る舞い、適切な権利行使も怠った。

そのため問題があることが承知されながら、誰も改正を発議できなくなってしまった。

そして軍部の台頭、未曾有の経済危機、格差拡大による社会不満の増大など幾多の危機を経て憲法制定以来の微妙な政治的均衡が崩れると、上記の問題の弊害が次々と噴出するのであった。


天皇大権

大日本帝国憲法下の規定では、天皇は法規の制定、宣戦布告条約の締結などを政府および議会の承認を得ずに行うことが可能など、大きな権限が与えられており、その結果には責任は問われなかった( いわゆる君主無答責 )。


実際には歴代天皇( 明治天皇大正天皇および昭和天皇)は常に内閣の助言のもとに大権を行使した。立憲君主政が確立した大正・昭和期に天皇個人の判断で天皇大権が発動されたのは内閣が機能不全に陥った非常時のみで、二・二六事件の戒厳令とポツダム宣言受諾の決定の二例のみである。


ただし昭和天皇の名で太平洋戦争開戦を宣言したことは、戦後に天皇の戦争責任問題を追及される根拠ともなった。


同様の事例としては第一次世界大戦ではドイツでは革命が起き、皇帝ヴィルヘルム2世が戦争責任を問われ、追放された事例が存在するが、政治取引によって結局東京裁判では天皇の戦争責任は問われなかった。


憲法改正

帝国憲法下では憲法条文は改正されなかったが、日本国憲法発布は改正という形式で行われた。

その際「改正内容に問題があり有効ではない」と一部では考えられている。

この意見は現代においては右翼の意見として有名であるが、憲法改正限界説、すなわち「憲法の基本原則、すなわち国体を変更する憲法改正は法的に不可能」と考える学説の憲法論者の意見でもある。

憲法改正有限界説と現行憲法の合法性との間で整合性をとるため、憲法学者の間では八月革命説が唱えられている。


関連項目

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