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設立前

1954年11月19日、蔵前国技館で「世界女子プロレスリング大試合」が開かれて本格的な女子プロレス興行が行われた。

1955年、女子プロレス団体が相次いで設立され、団体を統括するコミッション組織「日本女子プロレスリング連盟(にほんじょしプロレスリングれんめい)」を設立、「東京ユニバーサル女子プロレスリング団」、「全日本女子レスリング倶楽部」、「全日本女子プロレス協会」、「東洋女子プロレス協会」、「広島女子プロレスチーム」が参加。

1967年4月19日、そんな状況を変えようと乱立する団体を統合して日本女子プロレス協会を設立。4月29日、台東区体育館(現:台東リバーサイドスポーツセンター)で旗揚げ戦を開催。右翼活動家の万年東一が音頭を執り元全日本女子プロレス代表取締役会長の松永高司と戦後の柔拳創始者の中村守恵が奮闘。

同年3月10日、東大阪市体育館で巴幸子がムーラの持つNWA世界女子王座を奪取して日本初の女子プロレス世界王者となるなど盛り上がりを見せた。


設立後から解散まで

しかし最初のシリーズを終えた後に万年、松永と中村が対立。巴を含むほとんどの選手は松永に付いていき分裂、1968年6月4日、東京都品川区の品川公会堂で旗揚げ戦を開催。

メンバーは日本女子プロレス協会を離脱した奄美百合子、本堂活子、巴ゆき子(巴幸子)、柳みゆき、山口洋子、吉葉礼子(松永の妹)、遠藤恵子、岡田京子、京愛子、ジャンボ宮本、赤木まり子とミゼットレスラー4人。

1970年10月15日、京愛子が第3代WWWA世界シングル王座を獲得。以後タイトルは全女の管轄となる。

1973年5月、後楽園ホールに初進出。

1975年、会長の万年東一が辞任。社長の松永高司が、その跡を受ける。


その後、マッハ文朱、ジャッキー佐藤とマキ上田の「ビューティ・ペア」、長与千種とライオネス飛鳥の「クラッシュ・ギャルズ」など、数多くのスター選手を輩出。


1990年代には他団体と各プロレス団体に交流を呼びかけ、実現させるもブームが終焉すると1997年以降退団・移籍する選手が続出。同年10月、手形不渡りによる銀行取引停止処分を受けるも何とか存続。

2002年には地上波放送が打ち切り。

2005年3月29日、神奈川県横浜市金沢区の産業振興センター体育館大会を最後に主催興行を停止。

4月17日、後楽園ホール大会(主催はファースト・オン・ステージ)で会長の松永高司の勇退と同時に解散。

解散当時の所属選手は渡辺智子、前川久美子、高橋奈苗(現・奈七永)、サソリ、Hikaru、前村早紀に外国人選手のアメージング・コング。最終興行は2,100人を動員して、怪我で欠場した高橋、Hikaruを除く所属選手に現役OG選手を集めて行い引退したOGも多数来場。



主な在籍選手

※イラストや記事のある選手(他団体へ移籍・引退から復帰した選手も含む。)のみ。太字はWWWA世界シングル王座を獲得した選手。

マッハ文朱 マキ上田 ジャガー横田 長与千種 ライオネス飛鳥 ダンプ松本 ブル中野 北斗晶 アジャ・コング 工藤めぐみ 豊田真奈美 下田美馬 井上貴子 白鳥智香子 高橋洋子 脇澤美穂 高橋奈七永 夏樹たいよう


因みに、マッハ文朱は最年少(第17代、16歳0か月)・デビュー後最短(同じく0年7か月)戴冠記録ブル中野は連続最長保持期間記録(第37代、1057日)、ジャガー横田は通算保持期間記録(第29代、31代=4年9か月)を持っていた。


関連タグ

女子プロレス


島本和彦:豊田真奈美の実録プロレス漫画『燃える!! 女子プロレス』を描いた。

佐々木健介田中稔:全女出身のレスラーと結婚したプロレスラー。

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