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ノーラン・ブッシュネル

のーらんぶっしゅねる

ノーラン・ブッシュネルとは、アメリカの実業家で元ゲームデザイナー。ビデオゲームの父と称される人物である。

人物

1943年2月5日アメリカ合衆国ユタ州のクリアフィールドにて誕生。他に3人の兄弟がいた。

幼い頃からSFパズル、数学、電気工学に興味を持ち、7歳でアマチュア無線を開始。15歳の時に父と死別したが、母の仕事と父の生命保険で家計には困らなかった。しかし「自立性と感性を養う」という教育方針と、教科書を買うための金をポーカーで擦ってしまったせいで小遣いがもらえず、電気製品の格安修理のアルバイトを始めた。

大学時代、ラクーン遊園地のゲームコーナーの客引きやエレメカの修理のアルバイトをした経験でアーケードゲームと電気工作に興味を持ち、それらを商業化しようと思いつく。


ユタ州立大学を中退し、ユタ大学工学部に転入。そこでプログラムを学ぶ。大学の研究室で世界最古のコンピュータゲームスペースウォー!』の魅力を知り、遊園地に設置することを計画したが設置費用がかさみ断念。

卒業後はアミューズメント関連の仕事を始めるべくディズニー関連の会社に就職したが上手くいかず、アンペックス社に転職。結婚し、二人の娘に恵まれる。

1970年に電子部品の価格が安くなったことを切っ掛けに本格的にゲーム開発に着手し、次女の部屋をガレージに移してゲーム開発部屋へと改造し、『スペースウォー!』のアーケード版『コンピュータースペース』を開発。1971年に販売したが、操作が複雑すぎたことが災いし数十台しか売れなかった。


72年にアンペックスを退職し、アンペックス時代の仲間と共にアタリを立ち上げる。片手でプレイできるテニスゲーム『ポン』を開発し、これが大ヒット。その後も多くのヒットゲームを生み出し、僅か数年で大企業へと成長させた。


その後、家庭用ゲーム機Atari2600の開発を行うも資金を確保できず、株式公開も検討したが最終的には親会社になってくれる企業を探すことに決定。

1976年に、ゲーム業界への進出を望んでいたワーナー・コミュニケーションズにアタリの株を2800万ドルで売却し、ブッシュネルは内1500万ドルを受け取る。それまでの『ポン』『ブロック崩し』の儲けも含めてブッシュネルは億万長者となった。

1977年に、ピザショップとゲームセンターを融合させたピザタイムシアターを開店している。当時アーケードゲームを設置できる場所は限られていたため、それを解決するために立ち上げた店である。家族向けにアピールするためにアニマトロニクスも導入しており、好調な滑り出しを見せた。

だがいざ発売したAtari2600は売上が伸びず、Atari2600を育てたいワーナーと経営方針の違いで大きく衝突し、1978年に会長を解任されアタリから退いた。


その後は前述のピザタイムシアター経営に戻り、同時に様々な会社を立ち上げた。Axlon社は子供の声に反応して喋るAG Bearを1985年に発売し大ヒットさせており、Etak社は初めて世界地図をデジタル化してGoogleマップの前身になった。しかし、これらの事業は最後まで成功することが少なく大半は倒産してしまっている。ピザタイムシアターも破産して競合他社に売却する形で手放した。


2005年にはアメリカの大型レジャー施設メトレオンに、「ゲームの歩みを記した人物」(Walk of Game)として、宮本茂と共に名前が星印の中に刻まれた。


現在はゲームを教育に活用するBrainRushを設立しCEOを務めており、スペイン語の学習速度を従来の方法から8~10倍向上させる等の実績を出している。


「覚えるのは簡単だが、極めるのは難しいゲーム」こそが最高のゲームであると語っている。彼のこの持論はブッシュネルの法則と呼ばれており、Blizzard社などがモットーとして採用している。


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