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石井紘基

いしいこうき

日本の政治家。民主党などで衆議院議員、総務政務次官(羽田内閣)としても活動していた。
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概要

1940年11月6日、東京市世田谷区に生まれる。

成城学園中学校高等学校卒業後は中央大学法学部に入学。当時、安全保障理事会の疑惑によって発生した反対運動の安保闘争に参加し、国会に突入するデモ隊の先頭にいた石井は、ほぼすべての国会議員が逃げ出す中で、一人デモ隊の目の前まで出て行き騒乱の最前線に出向き、たった一人で警官を抑えようとする日本社会党書記長の江田三郎の勇士に心打たれ、政治家を目指すようになる。


当時、日本共産党に所属していた江田三郎に傾倒し、彼の後を追うように社会党の活動に参加し、中央大学自治会委員長や学生運動のリーダーとなった。その後、早稲田大学大学院法学研究科を経て、1965年に社会党本部勤めからモスクワ大学大学院に留学。後に留学先で結婚。


大学院を修了後、1971年に帰国し、江田三郎の息子の江田五月の秘書となる。同年に恩師の三郎の急死した際に五月に「親父の後を継げ」と迫った。そして、後継の参議院議員候補となった五月を傍らで手助けし、五月の秘書となる。1978年に菅直人らと社会民主連合を結成し、事務局長に就任。


1990年の第39回衆議院議員総選挙では落選したが、1993年の第40回衆議院議員総選挙で共産党から日本新党に移行後の旧東京3区にて立候補し、初当選する。

1994年、羽田内閣において総務政務次官に就任し、自由民主党と統一会派を組み、栗本・大内啓伍・柿沢弘治・佐藤静雄が自民党移籍後に一時的に代表にも就任した。

1996年にはかつて自身が秘書として仕えた江田三郎の旧岡山2区での対立候補だった自由民主党総裁の橋本龍太郎を支持し同じ与党の新党さきがけに移籍した。のち民主党結成に参加。


逝去

2002年10月25日の午前10時ごろ、世田谷区の自宅駐車場で国会議事堂での会議参加の為、迎えの車に乗ろうとしたところを、背後で待ち伏せしていた過激派右翼団体『守皇塾』の代表に刃物で刺される。石井の叫び声に気付き駆け付けた妻は直様に救急車を呼ぶものの、救急隊が駆け付けた時点で既に石井は事切れており、その場で死亡が確認された。享年63歳。

解剖の結果、死因は刃物で脇腹を強く刺された事による出血死だった。


更に石井の遺体からは左の中指が切断されていた事が明らかになっており、解剖担当の法医学者曰く外側から切断されており、カバンを握った手が邪魔だっために指を切断したのではないかと推察を述べた。その為、犯人の目的は石井が所持していた政財関係の資料強奪によるものだと警察は推測した。


なお犯人はその場から逃亡し、翌26日に警察へ出頭しそのまま殺人容疑で逮捕された。取り調べに対し「生活に困窮し家賃の工面を断られたため、仕返しでやった」と供述し政界転覆や反政治勢力への実力行使では無く、金銭トラブルという個人的な恨みが動機だったと供述した。


2004年6月18日、東京地裁で犯人に対して無期懲役の判決が言い渡され、判決では被告が主張する「金銭トラブル」という動機は信用出来ず、過激派運動による暗殺だと結論付けた。その後は控訴するも、2005年11月15日、最高裁で無期懲役の判決が確定した。なお、公判中は犯人は一貫して事件の犯人は自分1人の単独犯であり、金銭苦による犯行であるという主張を変えなかった。


その後の服役中の取材においても犯人は石井議員が国会議員初当選する前から石井議員事務所をたびたび訪問しており、書籍や日本酒を高値で買い取らせていた。しかし、2001年頃から石井から面会拒絶されるようになると、伊藤は「育ててやったのに恩義を忘れた」と称して一方的な逆恨みするようになった。更には、強制執行を受けたアパートの家賃の肩代わりを要求も断られたため、伊藤は包丁と手裏剣をバッグなどに隠し持って、石井を殺害する機会を窺っていたという。


平成の現職国会議員が任期中に暗殺された最初のケースであり、戦後においては11代目山村新治郎に続いて4人目。


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