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日本の歌舞伎役者、俳優。

概要

1956年〈昭和31年〉5月10日生まれ。屋号は大和屋。定紋は三ツ大、替紋は花勝見。本名は本間 寿男(ほんま ひさお)。業務提携:松竹エンタテインメント。

梨園一の長身(183cm)で、その偉丈夫な押し出しを使った力強い芸風を持つ。


父は時代劇映画の二枚目スターでもあった坂東好太郎。父の再婚後の子であり、異母兄である二代目坂東吉彌とは20歳近く年が離れている。また十三代目守田勘彌の実の孫に当たるが、勘彌の長男であった父は20歳で映画界に転身し、程なく勘彌は姉の子を養子にとった(後の十四代目守田勘彌)ため、彌十郎が生誕した当時は歌舞伎界の外にいる状況であった。


父が八世三津五郎の襲名披露を機に歌舞伎界に復帰すると、テープ係として父の舞台に同行するなどする内に自分も歌舞伎をやりたいという気持ちが高まり、三津五郎一門に入門。昭和48年(1973年)5月、歌舞伎座『奴道成寺』の所化観念坊で坂東弥十郎を名乗って初舞台を踏んだ。


その後、三津五郎や十四世守田勘彌といった後ろ盾を相次いで亡くしたことから、父と共に一般演劇に出演するなどして食いつなぎ、その後は三代目市川猿之助一座に移行。昭和53年(1978年)『五大力恋緘』(五大力)の男芸者、『人情噺文七元結』(文七元結)の鳶の頭で名題昇進。


立役、敵役、老役と幅広い役柄をこなし、平成10年(1998年)に真山青果賞奨励賞を受賞する。


家族、親族

長男は坂東新悟。一つ年上で一門本家格の十代目坂東三津五郎を「兄貴」と慕い、その死後も三津五郎一家とは深い関係を築いている。五代目坂東玉三郎は義理の従兄(十四世勘彌の養子)であり、玉三郎の舞台演出を手掛けたこともある。

長兄・吉彌は先んじて三津五郎一門に属したが、その後は上方歌舞伎を主な舞台として活躍した。66歳で歿しており、2023年に彌十郎は兄の没年齢を越えている。


ドラマなどにも多数出演している。

概要

1956年〈昭和31年〉5月10日生まれ。屋号は大和屋。定紋は三ツ大、替紋は花勝見。本名は本間 寿男(ほんま ひさお)。業務提携:松竹エンタテインメント。

梨園一の長身(183cm)で、その偉丈夫な押し出しを使った力強い芸風を持つ。


父は時代劇映画の二枚目スターでもあった坂東好太郎。父の再婚後の子であり、異母兄である二代目坂東吉彌とは20歳近く年が離れている。また十三代目守田勘彌の実の孫に当たるが、勘彌の長男であった父は20歳で映画界に転身し、程なく勘彌は姉の子を養子にとった(後の十四代目守田勘彌)ため、彌十郎が生誕した当時は歌舞伎界の外にいる状況であった。


父が八世三津五郎の襲名披露を機に歌舞伎界に復帰すると、テープ係として父の舞台に同行するなどする内に自分も歌舞伎をやりたいという気持ちが高まり、三津五郎一門に入門。昭和48年(1973年)5月、歌舞伎座『奴道成寺』の所化観念坊で坂東弥十郎を名乗って初舞台を踏んだ。


その後、三津五郎や十四世守田勘彌といった後ろ盾を相次いで亡くしたことから、父と共に一般演劇に出演するなどして食いつなぎ、その後は三代目市川猿之助一座に移行。昭和53年(1978年)『五大力恋緘』(五大力)の男芸者、『人情噺文七元結』(文七元結)の鳶の頭で名題昇進。


立役、敵役、老役と幅広い役柄をこなし、平成10年(1998年)に真山青果賞奨励賞を受賞する。


家族、親族

長男は坂東新悟。一つ年上で一門本家格の十代目坂東三津五郎を「兄貴」と慕い、その死後も三津五郎一家とは深い関係を築いている。五代目坂東玉三郎は義理の従兄(十四世勘彌の養子)であり、玉三郎の舞台演出を手掛けたこともある。

長兄・吉彌は先んじて三津五郎一門に属したが、その後は上方歌舞伎を主な舞台として活躍した。66歳で歿しており、2023年に彌十郎は兄の没年齢を越えている。


ドラマなどにも多数出演している。

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坂東彌十郎
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日本の歌舞伎役者、俳優。

概要

1956年〈昭和31年〉5月10日生まれ。屋号は大和屋。定紋は三ツ大、替紋は花勝見。本名は本間 寿男(ほんま ひさお)。業務提携:松竹エンタテインメント。

梨園一の長身(183cm)で、その偉丈夫な押し出しを使った力強い芸風を持つ。


父は時代劇映画の二枚目スターでもあった坂東好太郎。父の再婚後の子であり、異母兄である二代目坂東吉彌とは20歳近く年が離れている。また十三代目守田勘彌の実の孫に当たるが、勘彌の長男であった父は20歳で映画界に転身し、程なく勘彌は姉の子を養子にとった(後の十四代目守田勘彌)ため、彌十郎が生誕した当時は歌舞伎界の外にいる状況であった。


父が八世三津五郎の襲名披露を機に歌舞伎界に復帰すると、テープ係として父の舞台に同行するなどする内に自分も歌舞伎をやりたいという気持ちが高まり、三津五郎一門に入門。昭和48年(1973年)5月、歌舞伎座『奴道成寺』の所化観念坊で坂東弥十郎を名乗って初舞台を踏んだ。


その後、三津五郎や十四世守田勘彌といった後ろ盾を相次いで亡くしたことから、父と共に一般演劇に出演するなどして食いつなぎ、その後は三代目市川猿之助一座に移行。昭和53年(1978年)『五大力恋緘』(五大力)の男芸者、『人情噺文七元結』(文七元結)の鳶の頭で名題昇進。


立役、敵役、老役と幅広い役柄をこなし、平成10年(1998年)に真山青果賞奨励賞を受賞する。


家族、親族

長男は坂東新悟。一つ年上で一門本家格の十代目坂東三津五郎を「兄貴」と慕い、その死後も三津五郎一家とは深い関係を築いている。五代目坂東玉三郎は義理の従兄(十四世勘彌の養子)であり、玉三郎の舞台演出を手掛けたこともある。

長兄・吉彌は先んじて三津五郎一門に属したが、その後は上方歌舞伎を主な舞台として活躍した。66歳で歿しており、2023年に彌十郎は兄の没年齢を越えている。


ドラマなどにも多数出演している。

概要

1956年〈昭和31年〉5月10日生まれ。屋号は大和屋。定紋は三ツ大、替紋は花勝見。本名は本間 寿男(ほんま ひさお)。業務提携:松竹エンタテインメント。

梨園一の長身(183cm)で、その偉丈夫な押し出しを使った力強い芸風を持つ。


父は時代劇映画の二枚目スターでもあった坂東好太郎。父の再婚後の子であり、異母兄である二代目坂東吉彌とは20歳近く年が離れている。また十三代目守田勘彌の実の孫に当たるが、勘彌の長男であった父は20歳で映画界に転身し、程なく勘彌は姉の子を養子にとった(後の十四代目守田勘彌)ため、彌十郎が生誕した当時は歌舞伎界の外にいる状況であった。


父が八世三津五郎の襲名披露を機に歌舞伎界に復帰すると、テープ係として父の舞台に同行するなどする内に自分も歌舞伎をやりたいという気持ちが高まり、三津五郎一門に入門。昭和48年(1973年)5月、歌舞伎座『奴道成寺』の所化観念坊で坂東弥十郎を名乗って初舞台を踏んだ。


その後、三津五郎や十四世守田勘彌といった後ろ盾を相次いで亡くしたことから、父と共に一般演劇に出演するなどして食いつなぎ、その後は三代目市川猿之助一座に移行。昭和53年(1978年)『五大力恋緘』(五大力)の男芸者、『人情噺文七元結』(文七元結)の鳶の頭で名題昇進。


立役、敵役、老役と幅広い役柄をこなし、平成10年(1998年)に真山青果賞奨励賞を受賞する。


家族、親族

長男は坂東新悟。一つ年上で一門本家格の十代目坂東三津五郎を「兄貴」と慕い、その死後も三津五郎一家とは深い関係を築いている。五代目坂東玉三郎は義理の従兄(十四世勘彌の養子)であり、玉三郎の舞台演出を手掛けたこともある。

長兄・吉彌は先んじて三津五郎一門に属したが、その後は上方歌舞伎を主な舞台として活躍した。66歳で歿しており、2023年に彌十郎は兄の没年齢を越えている。


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