概要
(1942年6月28日 - 2009年9月25日)。右投右打。ポジション:二塁手。
1964年11月20日に読売ジャイアンツと契約し、1965年に入団。
「V9」の主力選手の一人としてチームに貢献し、V9前半の1960年代後半は主に2番打者を務め、クリーンナップである王貞治や長嶋茂雄への繋ぎ役であった。
犠打などの小技や走塁技術にも優れ、二塁手としても堅実で破綻が少ない守備を見せ、1968年と1969年の2年連続でベストナインのタイトルも獲得。
V9時代後半の1970年代前半には7番や8番など下位打者を務め、引き続き正二塁手としてチームを支えた。
1976年10月12日に現役を引退。
引退後
監督・コーチ歴
読売ジャイアンツ (1976 - 1980, 1986 - 1988)(コーチ)
オリックス・ブルーウェーブ (1991 - 1993)(監督)
読売ジャイアンツ (1996 - 1998)(コーチ)
オリックス監督時代の土井につきまとう評価は「イチローを見出せなかった」というイメージである。そして、イチローに「振り子打法」をやめるように指示したといわれており、世間からはその後のイチローの活躍から、見る目がなかったという厳しい評価を下されることが多かった。当時の土井はマスコミに対しても「鈴木のあの打法はプロ野球では通用しない」と公言。なおイチローもメジャーリーグへ移籍後は振り子打法を封印している。
しかしながら、土井自身はイチローを高く評価しており、決して見出すことができないわけではなかったといえる。
2007年頃から膵臓がんを患っており体調を崩していた。2009年9月25日12時24分、東京都内の病院で死去。67歳没。