生没 709(和銅2)年~782(天応元)年旧暦12月
在位 770(宝亀元)年~781(天応元)年
諱 白壁
生涯
壬申の乱の後皇統は天武天皇の子孫(天武系)が継いでおり、天智天皇の子孫である天智系だった白壁王も従四位下に叙位したのが29歳と当時の皇族としては遅く、不遇をかこっていた。
その後も藤原仲麻呂の乱鎮圧の功績により大納言となっていたが、皇位争いから逃れるため凡庸を装って粛清から逃れる日々を送っていた。
それが一変したのは神護景雲4(770)年、称徳天皇が崩御した事だった。
称徳天皇時代までに、前述の度重なる皇位争いから天武系の男系皇族が少なくなっていたため、称徳天皇の異母姉である井上内親王を妃とする白壁王に白羽の矢が立った。
同年10月1日、62歳の白壁王は光仁天皇として即位し、井上内親王が皇后、皇后との皇子である他戸親王が皇太子となり、光仁天皇の退位後は再び天武系の皇統が続くものと思われた。
ところが宝亀3(772)年、井上皇后が呪詛を以って天皇への大逆を図ったとして皇后を廃され、他戸親王も連座する形で皇太子を廃された(後継の皇太子は庶長子の山部王)。なお井上内親王と他戸親王は翌年、天皇の姉である難波内親王を呪殺した嫌疑から庶人に落とされて皇族ですらなくなったうえで幽閉され、宝亀6(775)年の同日に母子ともども死亡している(これについては山部王の立太子を狙った藤原氏の謀殺説がある)。
天応元(781)年に病気から山部王に譲位し、同年末に崩御した。この後の皇室は、光仁天皇の男系子孫が令和の現在に至るまで天皇として即位し続けている。
皇統
・山部親王(第50代・桓武天皇)
・早良親王 ー 桓武天皇皇太子
・薭田親王
- 女嬬:県犬養勇耳
・広根諸勝
- 不詳
・開成