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概要

アルファベットで"Holocaust"と書き、ギリシャ語で「焼かれた生贄」という意味とされる。元々はユダヤ教の儀礼で、などを焼いてに捧げる宗教的な儀式であった。


しかし、第二次世界大戦期にナチス・ドイツユダヤ人の絶滅の意図をもって大量虐殺した絶滅計画が起こってからは、この虐殺を「ホロコースト」と呼ぶようになった。


ただ、元々は神聖な儀式の名であることから、虐殺行為を「ホロコースト」を呼ぶことに批判的な意見もある。この虐殺をホロコーストと名付けたのは、ユダヤ人のエリ・ヴィーゼル(1986年ノーベル平和賞を受賞)とされるが、彼も後に撤回したがっていたという。「ホロコースト」の語を避ける場合、ヘブライ語で「惨劇」を意味する「ショア」(ショアー、あるいはショーアとも)を使用することもある。


なお、「ホロコースト」という語は戦争中から使用されていたが、その使用者はごく一部であった。この語が世界的に使われるようになったのは、1978年アメリカのテレビドラマ「ホロコースト」が、世界的にヒットした事がきっかけである。このため、戦争直後にユダヤ人虐殺を描いた史料や作品の中では、「ホロコースト」という語はほとんど出てこない。


前景

アドルフ・ヒトラー率いるナチス反ユダヤ方針を掲げ、政権掌握後は勢力拡大とともに法的・組織的に国家規模でユダヤ人迫害を強めた。ユダヤ人から次々に権利を奪い、移動を制限し、居住区「ゲットー」に集団移住や強制労働をさせた。ナチスは政権掌握前から「ユダヤ人の断固除去」などのスローガンを掲げていたが、これが虐殺をも意味していたかどうかは判然としない。

少なくとも、政権掌握当初はユダヤ人の絶滅ではなく、ドイツ国内からの追放が主な方針であった。戦争が始まって以降は(財産を没収した上での)東方、マダガスカルや中東への追放も計画されたが、ドイツが所有する船舶の輸送力の限界や戦争の長期化に伴いその実行は非現実的なものとなっていった。


ヴァンゼー会議

第二次世界大戦の開始から、散発的なユダヤ人(および、ナチスが劣等民族とした人々)の虐殺が開始される。しかし、このときは親衛隊の一部が、小規模な部隊を作って、散発的な虐殺をしていたに過ぎなかった。軍や省庁は、親衛隊の虐殺を止めることはしなかったが、苦言を呈する事はあった。


このように、ドイツ国内でも意思統一がなされておらず、このままではユダヤ人の絶滅は難しい状態にあった。そのため、1942年1月20日、ヴァンゼー会議が開催された。この会議により、「ユダヤ人問題の最終的解決」、すなわち絶滅政策が決定された。これにより、それまでユダヤ人の取り扱いがバラバラだった省庁や軍の方針も確定した。


会議の以降は、ユダヤ人たちの扱いはより過酷となっていった。その終着点が、アウシュビッツ収容所といった強制収容所に収容である。収容所に送り込まれたユダヤ人たちは、劣悪な環境下で労働させ、労働できなくなった人間から様々な方法で殺戮されていった。また、アインザッツグルッペン(日本語に直訳すると特別行動部隊)という専門部隊が編成され、彼らは戦争に従軍しながら、戦地や占領地でユダヤ人や敵性分子を見つけ次第に虐殺した。


  • 「最終解決の過程で、ユダヤ人は然るべき監督の下、東部で労働部隊に組み込まれる必要がある。男女別の大規模な労働部隊の中で労働可能なユダヤ人は鉄道建設に振り向けられるが、その大部分は『自然減少』によって欠落していくだろう。最後まで生き残る者は抵抗力の強い人間であるから、彼らに対しては『相応の対応』が必要になる。というのも、こうした自然淘汰の結果を放置すれば、新たなユダヤ人の血を後世に残すことにつながるからである」(ラインハルト・ハイドリヒ。1942年1月20日、ヴァンゼー会議において)

ホロコーストはドイツや占領地各地で大々的に展開されたにもかかわらず、戦後も「知らなかった」というドイツ人が多くいたのは、「ユダヤ人絶滅」が違法であること、堂々と行っては心理的抵抗を招くためにドイツ国内では行われず、占領地域で秘密裏に行われたためである。ドイツにも収容所は多く存在したが、それらは政治犯を収容したり、あるいは一時的に収容する目的のもので大量殺戮を行う収容所は、当時世界最大のユダヤ人コミュニティがあり、ドイツの勢力圏の中間地点にあったポーランドに集中した。

このため、ドイツ国内においては直接あるいは間接的にホロコーストに関わった者か、そうではない者は様々な状況証拠から推測しない限り知る由はなかったのだが、事実を知っている者もその多くが恐怖心により口をつぐんだ。


とはいえ、数年間これだけ大規模な虐殺が展開されていては、隠し通すことは難しく、多くのドイツ人(および、ドイツに協力的な各国の住民)は、薄々はユダヤ人虐殺のことを感づいていたという指摘もある。


  • 「ここだけの話として極めてオープンに話す。ユダヤ人移送、ユダヤ民族絶滅のことである。口にするだけなら簡単なことだ。『ユダヤ民族は絶滅される』。(中略)これはこれまで書かれてこなかった、そしてこれからも書かれることはないであろう、我らが歴史の栄光の1ページである。」(ハインリヒ・ヒムラー。1943年10月4日、ポーゼンで親衛隊中将達にむけて)

虐殺の規模と全容

その犠牲者はユダヤ人のみで最大600万人とされている。ユダヤ史の専門家であるマーティン・ギルバートの研究では、大戦前後の人口比から575万人が犠牲になったと推定し、ほかの研究でもおおむねこれに近い数字で前後している。第二次世界大戦において、ヨーロッパでもっとも犠牲者を出した地域はベラルーシの人口比率2割だが、ユダヤ人は約6割の人口が消滅しており、ユダヤ人が積極的な標的とされたことは明白である。

また、ロマといったジプシー、肉体的・精神的障害者同性愛者、浮浪者などへの迫害や虐殺も含まれることもある。


ユダヤ人への迫害は段階的に進められたこともあり、逃げる余裕のあった富裕層のユダヤ人は、本格的な虐殺が起こる前にアメリカ合衆国カナダスイスイギリスオーストラリアメキシコ南米南アフリカなどに亡命したことで被害を免れることができた。逃げる余裕の無かった貧困層のユダヤ人は、その多くが捕まり殺された。ただし、富裕層や中間層でもナチスの反ユダヤ主義を「荒唐無稽な主張」として真に受けず「政権を握れば彼らもまともになるだろう」と考えたユダヤ人も多く、ナチス政権成立後までドイツに残ってしまい手遅れになったり、着の身着のまま逃げざるを得なくなった者もいた。またドイツは一時期、スイスを除く大陸ヨーロッパの大半を影響下に置いたため、せっかく他国へ亡命しても結局は捕まって殺されたユダヤ人もいた。


有名なアンネ・フランクの一家も、当初はオランダアムステルダムに逃げて平穏な時間を過ごしていたが、ドイツはそのオランダをも占領したため最終的に全員が捕らえられ、アンネと姉・マルゴットは収容所で蔓延していたチフスにより死去。母・エーディトも衰弱死し、父・オットーだけが生き残った。


ドイツは同盟国の日本にもアジア方面に逃れたユダヤ難民を迫害するよう求めたが、日本は積極的には協力せず、受け入れを著しく制限するに留まった。杉原千畝はその方針に逆らう形でリトアニアでユダヤ人に出国手続きをさせて延べ6,000人近いユダヤ人を国外に亡命させたため、戦後は外務省を事実上追放された。


多くのユダヤ人は自分達の国家を強く望むようになり、中東のパレスチナにユダヤ人国家を建設する動き(シオニズム)に弾みがかかった。シオニズムの結果成立したイスラエルは国外のユダヤ人の移住奨励や保護に非常に熱心であるが、このような歴史が関係しているのはいうまでもない。


なお、「ホロコースト」は、ナチス・ドイツが中心になって行われたが、元々ヨーロッパにはユダヤ人に対する反感が根強く存在した。この事から、ナチス・ドイツに占領された地域の一部では、当のナチス政権が困惑するほどの熱心さを持って、現地人がユダヤ人を手当たり次第に虐殺する事態も発生した。バチカンがドイツの同盟国イタリアにあったことから、カトリック教会も、ドイツの蛮行を見過ごすことも多かったという。ただし、イタリアの独裁者ムッソリーニは、ホロコーストに個人的に嫌悪感を持っていたとも言われる。イタリアにもユダヤ人嫌いの風潮が元々あったのだが、ファシスト・イタリアがこれに協力するようになったのは戦況が悪化してからだった。


現在では、ホロコーストは世界史に残る蛮行として認知され、当のドイツではホロコーストを公に否定する行為は深刻な人権侵害と煽動と見なされ、犯罪行為になりうるほどとなっている。


イスラエルにおいて

ユダヤ人たちが建国したイスラエルでは、当然、ホロコーストは悲劇の物語として語り継がれている。イスラエルではホロコーストに関連した催しが良く開かれており、悲劇を忘れないという意識が醸成されている。しかし、中には歴史的な意義よりも、愛国主義を煽るようなイベントもあり、ホロコーストを利用していると批判される事もある。


イスラエルが建国されたパレスチナの地は、もともと無人ではなくアラブ人が住んでいた。イスラエルは彼らパレスチナの先住民も「国民」として受け入れている。しかし、イスラエルは先住民のアラブ人たちの土地を奪い、抵抗する者には住宅の破壊や虐殺などの厳しい弾圧を繰り返しており、「ユダヤ人がヒトラーを真似ている」という批判がある。実際に、イスラエルの極右・民族団体の中には、イスラエル国内のアラブ人やイスラム教徒を「毒ガスで殺せ」と扇動する団体すら存在している。イスラエルの第三党の議席を持つ右派政党「イスラエル我が家」では、イスラエルに忠誠を誓わないアラブ人の市民権剥奪を主張しており、アラブ系のイスラエル国会議員を「恥を知れ」と糾弾するテレビCMを放映している。2015年には、リーベルマン外相がアラブ系に対して「斬首せよ」と放言する事態も発生している。2018年には、アラブ系の言語であるアラビア語が、公用語から外された。


ユダヤ人を救った人々

しかし、数は少ないものの世界の中にはこれに異議を唱えて、杉原氏の他にもユダヤ人の脱出や保護を手伝っていた人間もいた。


  • アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス
    • ポルトガルの外交官。ドイツ駐在中に約1万2千人のユダヤ人を脱出させた。
  • イレーナ・センドラー
    • ユダヤ人救済委員会「ジェゴタ」の代表。ポーランドで2500人もの児童を救出。
  • ヴィルム・ホーゼンフェルト
    • ドイツ軍人にもかかわらず、ユダヤ人を保護した。その中には戦場のピアニストで有名なウワディスワフ・シュピルマンも含まれていた。
  • エリザベート・ド・バヴィエール
    • ベルギー王妃。強制収容所送りになりかけていた100人の子供たちを救出。救出した人数こそ少ないものの、ドイツと直接交渉に近い形で救出した例は唯一。
  • オスカー・シンドラー
  • ニコラス・ウィントン
    • 株式仲買店員であったが、知人からの応援要請をきっかけにチェコで699人の児童を救出。
  • ヒュー・オフラハーティ
    • カトリック教会司祭。4000人以上を匿った。この計画には欧州の貴族や政治家、ローマ教皇も後押ししていた。
  • フレデリック・フィリップス
    • オランダの電器メーカ、フィリップスの元代表。自身の経営する工場に雇用の名目で382人を匿った。
  • ブラザー・ロジェ
    • テゼ共同体の創設者。1940年から2年間、マジノ線にテゼが近かったため、ユダヤ人の亡命を手伝っていた。
  • 何鳳山(Ho Feng-Shan)
  • ラウル・ワレンバーグ
  • 近衛秀麿
  • 樋口季一郎
    • 陸軍中将。独断で満州国にユダヤ人を受け入れた。(オトポール事件で検索されたし)
  • 東条英機|
    • 樋口の行為に対するドイツの抗議を「必要な人道的配慮により行ったもの」と一蹴した

異議を唱えたドイツ軍人

ドイツ軍人の中にもユダヤ人の弾圧に異議を唱えた人間がいた。

  • エルヴィン・ロンメル
    • ユダヤ人を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を抹殺するように指令が下ったが、その場で指令書を焼き捨てた。
  • クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
    • ヒトラー暗殺計画の参加者の一人。最後まで政府のユダヤ人の非人道的な扱いに反対していた。このためドイツでは英雄として顕彰され続けてきたが、彼はポーランドの植民地化とポーランド人の奴隷化論者であったことが知られるようになると、その風潮は消えていった。
  • ギュンター・リュッツオウ
    • 普通の表情ですら顔面が怖い事で有名。ユダヤ人を処分するための人員を送るよう親衛隊に指示された際に激怒して拒否した。部下に対してはそれが野蛮な犯罪行為であると説明した。更に部下の中で一人でもこの行為に加担するものなら隊長をやめると彼は言った。
  • ハインツ・ハイドリヒ

関連タグ

第二次世界大戦 ドイツ ユダヤ リトアニア ポーランド オランダ

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