概要
開発経緯
1940年に正式採用された水陸両用軽戦車T-40は、偵察車両としては優秀ではあったが、
いざ戦闘となると火力と装甲の貧弱さが目立ってしまい現場では不評であった。第37工場設計局のN.A.アストロフ主任技師はT-40のような水陸両用機能を廃し簡易な構造とし防御力と火力を向上した新型車両の開発を開始した。
開発
T-40のシャーシをベースとし圧延鋼板による溶接・リベット止め併用組み立て方式を採用していた。車内容量を絞り込むことで最大装甲厚を14㎜から20㎜に向上したにもかかわらず5.8tとT-40とそん色ない重量となっている。武装もT-40の12.7㎜機銃であったがT-60は20㎜機関砲と火力向上が図られている。エンジンは今までのGAZ-11(出力85hp)からGAZ-202(出力75hp)と馬力が下がっているが路上の最大速度は45km/hと良好であった。1941年10月に『T-60軽戦車』として正式採用された。
生産
本車が生産を開始した1941年はバルバロッサ作戦が発動しドイツ軍によるソ連への侵攻が始まった年であった。特に、生産が開始されたころはタイフーン作戦が発動されモスクワの喉元までドイツ軍が迫っているころであった。前線では1輌でも多くの戦車が求められ生産工場であった第37工場は疎開するギリギリまで生産準備を進められ第38工場、第264工場でも生産することとなった。量産車がロールアウトしたのは1941年12月のことであった。1942年の秋までに6045輌が生産されたとされる。
実戦
1942年1月のドイツ軍の戦闘報告にT-60の出現が記載されている。火力と装甲を強化した本車であったがやはりドイツ軍の相手では歯が立たなかったようである。1942年よりT-60はドイツ軍と対峙する各戦線で姿を現しており損失を出しながらも敢闘した。