史実
昭襄王・荘襄王に仕えた。生没年は不詳であるが、紀元前244年に死没した王齮との同一人物説がある。
この理由として、彼らの記述のある「秦始皇本紀」と「秦本紀」では同じ時代に生きていたにもかかわらず一方しか書かれていないためである。
遅くとも南朝宋代には王齕と王齮が同一人物である可能性が論じられているのもそれを裏付ける。
こちらが登場するのは「秦本紀」であり、紀元前260年の長平の戦いでは白起とともに趙を打ち破る、紀元前257年に魏を攻め六千もの首を切るなどの記述がある。
キングダム
昭襄王の時代の秦国には、中華全土に影響を与え、時と場合によってはその者の名前を聞くだけで城を明け渡すほどの強大な武将が存在したという。
とりわけ強大であった彼らを伝説と称し、人々は敬意を込めてこう呼んだ。
――六大将軍、と。
白起は中華史のみならず世界史全体で見ても最強との声もあり、
胡傷は軍師から大将軍に上り詰め、六大将軍を取りまとめたほどの知将で、彼の弟子は後世においても重要な立ち位置にあり、
キングダムでは未だ明かされない司馬錯は故人ながらも今後の伝承が期待され、
王騎は作中最後の六大将軍として後世の秦人などに多大な影響を与えた。
そして王齕は
本作では王騎と王齕は別人で、同じ六大将軍ではあるが、扱いについては大差がある。
六将随一の怪力豪将と呼ばれ、得物は長柄大斧だが、現時点で語られている彼の話は上記の通りで、勝手に楚を攻撃して同じ怪力の楚将・汗明に敗れた、である。
だが箝口令が敷かれたことで秦国では伝わっていなかった。
他にも廉頗や馬南慈などの面々とも戦ったことが語られているが、いずれも王騎・白起・摎の誰かと被ってしまう。これは史実の行動範囲が王騎と被るのが問題なのだが。
独自に侵攻した楚についても、箝口令を抜きにしても戦が殆どなかったことで昌平君を除き武将の実力を知る者が極めて少ないため、彼の話が語られる機会自体が少ないものと考えられる。
達人伝
秦の老将軍の一人。
老いても血気盛んで、単騎で敵城の守備軍を蹂躙するなど無敵の武を振るうが昼間は動きが鈍くなる、両脇の守りが甘いという弱点がある。
虫の幼虫などをよく食べるため、老将ながらも相当タフであることが窺える。
その外見からは野蛮な印象さえ与えるが、実は白起の心情をよく理解する人物でもある。
廉頗との一騎打ちで燃え尽き、その名と軍を甥の王騎に譲り息絶えた。
上記の『キングダム』とは対照的に本作ではこちらの方が王騎より出番に恵まれている。
また、本作では同じ苗字ということで王騎とは親族の関係が付与され、自身の跡を王騎に託している。