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概要

セティ1世の息子で、父王の死後、約25歳の時に即位したと思われる。

ラムセス2世の治世は古代エジプト史上2番目の67年もの長きに渡った。


功績

治世5年にアマルナ時代の混乱の中で失われた領地を回復すべくシリア方面へと向かい、カデシュ近郊の地でヒッタイト王国と戦った。いわゆる「カデシュの戦い」である。だがこの戦いは一進一退の攻防が続き、その後ヒッタイトとの間で世界初の平和条約が締結され、15年にわたった戦いに終止符をつけた。


建築事業においては、未完のままだった父王セティ1世の建築物群を完成させ、自身もテーベ西岸の葬祭殿(ラムセウム)やルクソール神殿の第一塔門と中庭、塔門の前の一対のオベリスク(うち一本は現在、パリコンコルド広場に建てられている)、アビドスの小神殿など数多く行っている。中でも南方のヌビアの地に建立したアブ・ジンベル神殿は、砂岩を彫り込んで作られた巨大な岩窟神殿で、ラムセス2世最大の建築物である。自身の彫刻も数多く作ったが、先代に作られた像に自らの名を刻ませて自分の像にしてしまったものも多く見られる。レリーフもやたら多く、メイン画像のようにド派手なチャリオットを駆る姿は古代エジプトに興味のある人なら誰もが見覚えがあると思われる。


家系図

ラムセス2世は、生涯に8人の正妃(王妃)と多くの側室を娶り、更には近親婚で自身の娘も娶って計100人以上の子がいたとされる。

その中で彼が最初に娶ったネフェルタリはラムセス2世の寵愛を深く受け、アブ・ジンベル神殿の隣にネフェルタリのための小神殿を建立し、王妃の谷に壮麗な墓を作っている。


墓とミイラ

ラムセス2世は生前のうちに王家の谷に墓所を用意し、そこに埋葬された。

墓は王家の谷の中の墓ではおそらく一番広いもので、装飾ももっとも美しい物のひとつであったと思われるが、後世の度重なる水害地震により激しく損傷して、失われてしまった物も多い。さらに盗掘の被害にあい、多くの副葬品が奪われてしまい、墓にはアラバスターの人型石棺の破片、王の内臓を納めた青いガラスが象嵌されたアラバスターのカノポス厨子の破片、および木製、青銅製、青い大理石製の王の小彫像、石製容器の破片などの僅かな物しか残されていなかった。

ミイラは盗掘の後、神官たちによって安全な場所に移され、同じように盗掘から逃れるために避難させられた他のミイラたちとともに、19世紀後半に発見されるまでそこに安置されていていた。

現在カイロの考古学博物館にある王のミイラからは、形を保つために目や鼻に詰め物が入れられていたなど、当時最高の技術でミイラ化されたことが分かっている。


余談

  • 上記のチャリオットつながりで、彼こそが「戦車」のモデルではないかと言い出す人までなぜか現れた(本記事および「戦車(タロット)」の過去編集分をご参照されたい)。もちろん、その論拠になり得る物的証拠はいまだに見つかっていない。こんな珍説が出たのはタロットで今や最も有名な版であるライダー版(ウェイト版)の絵柄に、他ならぬエジプトのスフィンクスが戦車を牽く獣として採用されてしまったからであろう。なぜ採用したのかは、このデザインを最初に採用したエリファス・レヴィに訊かなければ分からないが、とりあえずラムセス2世およびエジプトの他の人物にルーツがあるわけでないことは確かである。
  • フランスにミイラを輸送する際に生きたエジプト人同様にパスポートが発行されたというエピソードが知られているが、これは根拠のない俗説である。
  • 「モーセの十戒」「出エジプト」で有名なモーセの伝説に登場するユダヤ人を差別して奴隷にしていた当時のファラオ(王)は時代的にラムセス2世であるという説があるが、真相は不明。
  • フランケンシュタイン』の作者であるメアリー・シェリーの夫パーシー・ビッシュ・シェリーが作ったソネット(詩の一種)『オジマンディアス』のせいで、「栄枯盛衰」の代名詞として使われる事が良く有る。

関連タグ

古代エジプト

オジマンディアス:ギリシャ語読みの別名。


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