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レイ・ハリーハウゼンの編集履歴

2014-05-13 16:36:55 バージョン

レイ・ハリーハウゼン

はりーはうぜん

レイ・ハリーハウゼン(1920~2013)とは、アメリカの映画特殊効果スタッフで、ストップモーション・アニメーター。20世紀における映画の特殊効果技術の歴史を作った人物。

- 汝、土より生まれし者 永遠の命吹き込まん


概要

1950年代から1970年代そして1981年までの間に、様々なSFやファンタジー映画にて特撮を担当。彼の特撮技術は、「キングコング(1933)」の特撮を担当した「ウィリス・オブライエン」が生み出した、骨格を内蔵した人形を1コマずつ動きを変えて撮影するモデルアニメーション(ストップモーション)と俳優などの実写のライブアクションとを合成する特撮技術を更に進化させて、人形の撮影時にライトの熱で色温度が変化してしまうというそれまでの問題点を


「まず先に撮影プランを充分に練り、それからライブアクションの撮影を行う。次に、モデルアニメーションの撮影の際、1コマ毎に色温度を調整できるフィルタを入れる事を生み出したことで光学合成することなくモデルアニメーションを撮影」することで解決。


この手法を用いて低予算ながらも高いクオリティの特撮映画を製作できるという事を証明し、特撮映画の歴史を作り、また骸骨剣士や青銅のタロス像、カーリー等の無生物にも生き生きとした動きをつけ、人間の俳優との動きにあわせて人形をよりダイナミックかつ立体的な動きをつけた事等から「Master of Monster」と呼ばれて尊敬されている人物である。


来歴

1920年6月29日アメリカ南カリフォルニアに生まれる。ウィリス・オブライエンの「キングコング」に衝撃を受けて、映画の仕事に携わる道を志す。学生時代からストップモーションアニメ映像の自主制作をおこなっていた。この時ウィリス・オブライエンと出会い、彼から様々な教えを授かる。そして、生涯の友であるレイ・ブラッドベリとの出会いもこの時。


高校卒業後は、南カリフォルニア大学の夜間部に通いながら映像技術を学び、卒業後はアニメーションスタジオに就職。第二次大戦中は陸軍の映画撮影班に属し、映画技術の基礎を習得した。退役後、ウィリス・オブライエンの新作「猿人ジョー・ヤング」の製作に参加し、その85%以上を担当したと言われる特撮パートは、1949年のアカデミー視覚効果賞を受賞したほどで、ウィリス・オブライエンは後年「ハリーハウゼンの師匠」と呼ばれるようになった。


1953年に公開した彼の実質的なデビュー作である「原子怪獣現わる」は大ヒットとなり、名実ともに特技監督としてその名を知らしめた。


1981年の「タイタンの戦い」を最後に、企画が実現しなかった事もあってか映画界から身を引き、イギリスにて妻や映画の撮影時に使用したミニチュアモデル達と共に余生を送る。


そして1992年、アカデミー賞特別賞を受賞。授賞式にて盟友のレイ・ブラッドベリの手からオスカー像を受け取った。


2013年5月7日、ロンドン市内の病院で92歳にて死去した。


彼の作品はジョージ・ルーカススティーブン・スピルバーグジェームズ・キャメロンといった後の映画界の巨匠となる少年達に映画の世界に進むきっかけを与え、ギレルモ・デル・トロに至っては「パシフィック・リム」のエンドロールにて「ゴジラ」の本多猪四郎監督と共に彼への賛辞を送っている。


主な作品

『猿人ジョー・ヤング』(1949年)

『原子怪獣現わる』(1953年)

『水爆と深海の怪物』(1955年)

『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』(1956年)

『地球へ2千万マイル』(1957年)

『シンドバッド七回目の冒険』(1958年)

『SF巨大生物の島』(1961年)

『アルゴ探検隊の大冒険』(1963年)

『H・G・ウェルズのSF月世界探検』(1964年)

『恐竜100万年』(1966年)

『恐竜グワンジ』(1969年)

『シンドバッド黄金の航海』(1973年)

『シンドバッド虎の目大冒険』(1977年)

『タイタンの戦い』(1981年)


関連タグ

特撮

キングコング

円谷英二(もう一人の「特撮の神様」)

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