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白瀬矗による日本初の南極探検に使用された木造帆船。命名は東郷平八郎による。


白瀬はもともと北極探検を目標にしていたが、ロバート・ピアリーの北極点踏破を受け目標を南極点到達に変更。しかし、政府、陸軍からの金銭的援助が全くなく、東京朝日新聞大隈重信のバックアップを受け、南極を目指した。


開南丸

1910年に漁船第二報效丸を購入し、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施したもので、排水量はわずか204トン(ちなみにロアール・アムンセンの南極探検に用いられた「フラム」は402トン)。極地探検のために建造されたわけでもなく、耐氷能力もない船だったが、白瀬隊の資金不足からやむを得ないものであった。


1910年11月に東京を出港。1年以上の船旅の末、1912年1月に南極に到達した白瀬隊はアムンセン隊と相互に表敬訪問をしているが、この際に白瀬隊の貧弱な装備や経験の乏しさを見抜かれ、「ライバルではない」と判断されている。


白瀬隊は南緯80度05分までしか到達できなかった(ここは南極大陸ですらなく棚氷の上である)。いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなった(図らずも1958年の第二次南極観測隊も似たような事態を経験している)。


同年6月20日に東京に帰港。時の政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援したといい、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸いたという。


関連項目

宗谷(船) - 初代南極観測船。開南丸の南極探検から45年後の1957年1月29日に東オングル島に到達し、日本の南極観測事業の礎を築いた。

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