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田丸直昌は、戦国時代から安土桃山時代江戸時代にかけての武将。

 名門・伊勢国司北畠氏の血を引いている。

  父・具忠の隠居に伴って家督を継承したが、織田信長 の伊勢侵攻により田丸城を明け渡して織田信雄に仕えた。天正2年(1574年)7月には信雄配下の武者大将として水軍を率いて第三次伊勢長島攻めに参戦している。


 本能寺の変後も引き続き信雄に属したが、やがて織田家の権力抗争で信雄と羽柴秀吉が対立し始めると秀吉に近付き、小牧・長久手の戦いには羽柴方として従軍している。

 戦後、蒲生氏郷の妹婿である事から、蒲生氏の与力大名に取り立てられた。氏郷が会津に転封になると、直昌は須賀川城主として3万石を与えられ、同じく与力大名で氏郷の妹婿である関一政と共に、蒲生氏を支える柱となった。

 氏郷死去後は子・蒲生秀行に従ったが、秀行が会津から宇都宮に減転封されると、秀吉に仕え、信濃国川中島の海津城主に封ぜられた。

 慶長5年(1600年)2月、徳川家康の命で森忠政と交換人事が行われ、美濃国岩村城4万石に移った。


 ......このように、特に目立つところもない彼がちょっとした有名人として知られている理由は、関ヶ原の戦いでの彼にまつわるエピソードにある。


  関ヶ原の戦いで、直昌は西軍に与した。

  小山会議で、加藤清正福島正則はじめいわゆる「秀吉子飼い」の諸将さえもがみな東軍に味方することを約束した。しかし、直昌ただひとりは秀吉から受けた恩顧を思って西軍に付く事を決意したという、どこか石田三成を彷彿とさせるような義理堅い人物像を示すエピソードである。


  ちなみに、直昌は司馬遼太郎作『関ヶ原(上・中・下)』にもチラッと登場しているが、それも上記のエピソードでの登場シーンとなっている。

 当作品ではどのように描かれているかというと、まず直昌が徳川家康と諸将の連絡役を務めている本多正信に対して「西軍に付きたい」と申し出た。そしてそれを聞いた正信と、正信から報告を受けた家康は「そんなに義に厚い者がいたのか」と感心し、西軍への参加を快く許した、となっている。

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