ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

山中鹿介

8

やまなかしかのすけ

山中鹿介(幸盛)とは、中国地方の戦国武将。尼子氏に仕え、主家の滅亡後もその再興のため度々兵を挙げ、仇敵である毛利氏に反攻を繰り返した。財閥で有名な鴻池氏の祖でもある。(1540年/1545年 - 1578年)
山中鹿介(幸盛)とは、中国地方の戦国武将。尼子氏に仕え、主家の滅亡後もその再興のため度々兵を挙げ、仇敵である毛利氏に反攻を繰り返した。財閥で有名な鴻池氏の祖でもある。(1540年/1545年 - 1578年)

概要

生 没:天文14年8月15日(1545年9月20日) - 天正6年7月17日(1578年8月20日)(異説あり)

別 名:幸盛、甚次郎、亀井甚次郎、鹿之助、鹿之介 他

父 母:山中満幸(実父)、亀井秀綱(養父)、なみ(生母、立原綱重娘)

兄 弟:幸高 他

子 女:幸元(鴻池直文)、幸範 他


山陰地方の戦国武将の一人で、実際の名乗りは山中幸盛(ゆきもり)であるが、本記事においては便宜上、世間に広く知られている「鹿介」の通称を用いるものとする。


「山陰の麒麟児」の異名を取り、尼子家中でも特に智勇・忠義に優れた「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人にも数えられるなど、類稀なる武勇と知略の持ち主として知られる。

衰退して行く主家への忠義を貫き、その復興を夢見ながらも悲運の最期を遂げた生き様は、後世山中鹿之助として講談や教科書などの題材とされ、広く人気を得ることとなった。中でも三日月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は非常に有名である。もっともこうした逸話から、一部の歴史ファンからは「ドM」という何とも有り難くない扱いをされる事もままある。

またこれも諸説あるものの、容姿端麗美少年とも伝わっており、その事も人気により拍車をかけている。


出自

生没日については前述の通り異説が存在し、このうち没した年についてはいずれも天正6年である点では一致を見ているものの、7月2日(1578年8月5日、『名将言行録』より)もしくは13日(同年8月16日、『雲陽軍実記』より)とも伝わっており、さらに前者では34歳、後者では39歳とそれぞれ没年齢も相違している。

生年月日については前半生に不明な点が多いため、基本的には没年月日からの逆算となるが、前出の天文14年8月15日については『太閤記』などに見られるもので、これを素直に受け取るならば34歳で没したことになるが、39歳で没したという異説を取る場合、生年は天文9年(1550年)となる。


出生地についても諸説あり、通説では尼子氏の本拠である出雲の月山富田城の麓と伝わるが、『陰徳太平記』によればそれよりさらに西に所在する鰐淵寺(島根県出雲市別所町)であるとされる。さらには尼子氏の勢力圏より遠く離れた、信濃の見上城(長野県南佐久郡南相木村)にも、鹿介が出生したとの言い伝えが残されていたりもする。


生涯

尼子家滅亡前

尼子氏家臣・山中満幸の次男として生まれたとされる。幼名は甚次郎(じんじろう)。

山中氏は尼子氏の庶流とされ、父・満幸も家老として仕えていた事から、鹿介も例に漏れず幼少から尼子氏に仕えた。鹿介が幼い頃に満幸が病没した為に生活は苦しく、そのため賢母と称された母の下、10歳にも満たない頃から合戦に参加し、さらに弓馬や軍法にも親しむ日々を送っていた。16歳の時、主君・尼子義久による山名攻めに従軍、豪傑として名高かった山名氏配下の豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取る殊勲を上げている。

その後、尼子氏の重臣・亀井秀綱の養子となっていた時期もあったが、やがて実家の山中氏へと戻り、永禄3年(1560年)に病弱だった兄・幸高から家督を譲られた。


鹿介が家督を継いだ当時、中国地方では毛利元就陶晴賢大内義長らを滅ぼして大内領を得てからその勢力を着々と広げており、かつては毛利氏を遥かに凌ぐ勢いだった尼子氏でさえも、本国出雲が毛利軍の脅威にさらされる状態にあった。

永禄6年(1563年)にはいよいよ毛利氏による出雲攻めが本格化し、鹿介も尼子軍に従軍して白鹿城の戦いなどで奮戦、名立たる武将の首級を上げて、終には生涯不敗の武将・吉川元春を撤退に追い込んだこともあった。永禄8年(1565年)の秋には、月山富田城攻めに毛利方として参陣していた石見の国人で、武名高かった品川将員(大膳、益田藤兼の配下)と一騎打ちに及び、これを討ち取るなどの活躍も見せた。


しかし、そんな鹿介の奮戦も全体の戦況に大きな影響を及ぼすものではなく、1年半余りにも及ぶ月山富田城での持久戦は主君・義久の毛利氏への降伏という結果に終わり、戦国大名としての尼子氏は一時的に滅亡を迎えることとなる。そこから、鹿介の尼子氏再興の日々が始まるのであった。


尼子氏再興運動(1度目)

浪人の身の上となった鹿介は、その後2年近くに亘り雌伏の時を窺うこととなる。再び彼の名が歴史上に現れたのは永禄11年(1568年)のことで、鹿介は京で僧になっていた尼子勝久(尼子義久のはとこで、かつて新宮党事件で討たれた尼子誠久の遺児に当たる)を還俗させて擁立。さらに諸国に逃散していた尼子氏の遺臣を糾合し、主家再興に向けて動き始める。


そして翌永禄12年(1569年)、元就が北九州支配を狙い豊後の大友宗麟と戦端を開いたのを好機と見た鹿介は、但馬の山名祐豊の助力も借りつつ遂に出雲へ侵攻を開始する。

出雲入りを果たした鹿介ら尼子再興軍は、忠山の砦より檄を発し国内に潜伏していた旧臣らを参集させ、わずか1週間足らずで3000にまで膨れ上がった軍勢はまず新山城を攻略。さらに宍道湖北岸に拠点として末次城を築き、出雲のみならず備後・備中や伯耆などへも勢力を拡大していった。

当時大友氏との戦いに追われていたとはいえ、毛利氏もこの動きに対して全くの無策だった訳ではなく、討伐軍を度々差し向けているものの、尼子再興軍はこれを時に打ち破り、また時には自陣営に引き込むことで、戦局を優位に進めていた。


一方、宗麟は重臣の吉岡宗歓(長増)の献策を容れ、客将であった大内輝弘(大内義隆の従兄弟)を豊後から海路周防を攻撃させ、さらに勝久のみならず備前の浦上宗景とも連携することで、元就を挟み撃ちにした。

このような状況に至り、支配体制の危機を感じた元就は、九州の戦線を放棄し尼子再興軍の鎮圧を優先させることを決断。永禄13年(1570年)に入って間もなく、尼子再興軍が攻略を続けていた月山富田城へと進軍を開始する。これを迎え撃つべく尼子再興軍は布部にて迎撃の構えを見せ、2月には当地にて激戦が繰り広げられるも、最終的に毛利軍が尼子再興軍を破り、落城寸前であった月山富田城を解放するに至る。


この敗戦を機に尼子再興軍の勢力は一時的に衰え、その後元就が重病に倒れたことにより手薄となった隙を突いて再度の反攻に打って出るものの、その勢いもまた一時的なものでしかなく、元亀2年(1571年)8月には再興軍の盟主であった勝久が出雲を追われ、鹿介もまた吉川元春に敗れ、尾高城に幽閉されてしまう。鹿介は謀略を巡らし脱出に成功するも、1度目の再興運動はここに惨憺たる結果に終わった。


尼子氏再興運動(2度目)

一旦隠岐へ逃れた鹿介は、その後但馬にて潜伏生活を送り、先の敗北から1年余り後の元亀4年(1573年)に入って再び尼子氏再興に向けて動き始める。因幡を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を企図していた鹿介は、因幡山名氏の山名豊国と結託し勢力を拡大、わずか半年余り後の天正元年(1573年)8月から9月にかけて、毛利方の武田高信が守る鳥取城を攻略し、これを手中に収めた。

その後鹿介は10日で15城を攻略するなど、瞬く間に因幡東部を勢力下に収めるものの、それから間もなく鳥取城に入っていた豊国が、調略により毛利方へ寝返ったことで、一転その勢力も不安定なものとなってしまった。この予期せぬ劣勢を取り戻すべく、鹿介はその後も軍事行動や反毛利勢力との連携を強化し、柴田勝家を通じて織田信長との繋がりを持ったのもこの時期のことであった。


しかし態勢を立て直し切れないまま、天正3年(1575年)には尼子再興軍を支援してきた山名祐豊も、当時領地を脅かしていた織田氏との対抗や、甥の豊国の勧めもあり毛利輝元と和睦(芸但和睦)を結び、これによって尼子再興軍はさらに苦境に追い込まれることとなる。

京都への道を確保すべく、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)に拠点を移し抵抗を続けていた鹿介も、毛利軍の東因幡侵攻や周辺の支援勢力の滅亡・衰退により孤立化、翌天正4年(1576年)5月頃に因幡からの撤退を余儀なくされた。2度目の尼子再興活動も、結局は実を結ぶことなく終わったのである。


尼子氏再興運動(3度目)

京都に逃れた鹿介らは信長に謁見。この時、信長からは「良き男」と称され「四十里鹿毛」という駿馬を賜ったとされる。これ以降、鹿介ら尼子再興軍は織田の傘下に入る形で、尼子氏の再興を目指すこととなる。

天正4年には明智光秀に従い丹波攻めへ参加、さらに天正5年(1577年)には織田信忠の下、大和攻めに従軍。松永久秀の籠る信貴山城攻略に当たり二番乗りを果たすなどの功績を上げている。この頃、光秀からはその戦いぶりに対し苦言されたとも言われる。


そして同年10月、羽柴秀吉に播磨攻めの命が下ったことで、尼子再興軍も羽柴軍と共に進軍を開始し、その年の暮れには要衝の上月城を攻略。鹿介と勝久らはそこを拠点とし、隣接する美作の国人に対する調略を開始した。年が明けた天正6年(1578年)1月には宇喜多氏による攻撃を受けるも、鹿介は夜討ちにてこれを打ち破っている。

しかし、またここでも予期せぬ事態が起こる。同年2月、三木城の別所長治が突如信長に叛旗を翻し、これを好機と見た毛利氏も急遽播磨に攻め込み、3万もの大軍で上月城を包囲してしまったのである。秀吉も荒木村重らと共に救援に向かったが、信長から長治の討伐を優先するよう厳命され、結果孤立無援となった上月城は、2カ月余りに亘る籠城戦の末、天正6年7月に毛利軍に降伏した。


悲運の最期

降伏の条件として主君・勝久は切腹を命ぜられた。主君の助命に尽力しながらもそれを果たせなかった鹿介は、勝久との別れの際に万策尽きたことを詫びつつ、「自らも吉川元春と刺し違えて後を追うつもりである」と涙ながらに申し立てたという。

それに対し勝久からは、「わずかな間ながらも尼子の大将として良い夢を見させてもらった」と感謝の言葉を贈られると共に、自らの命と引き換えに部下の命を救えるならば本望であるとして、また元春も智勇に優れた武将ゆえ差し違える機会も巡って来ないだろうとして、「生き延びて別の尼子の庶子の下で尼子再興を目指して欲しい」と諭されたとされる。


降伏の後、鹿介は叔父・立原久綱と共に生け捕りとなり、輝元が在陣していた備中松山城へと護送されることとなる。しかしその途上で、備中の合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の手により謀殺されてしまった。

謀殺に際し、毛利一門として鹿介と度々干戈を交えた小早川隆景は、その器量を高く評価しながらも武士として信の置ける者ではないとして、強硬に殺害を主張したとされる一方、輝元が主導したともされる。いずれにせよ輝元に、鹿介を生かす意思は全くなかったことだけは確かである。


ともあれ、尼子再興軍の中心的人物であった鹿介の死により、尼子氏再興の望みは完全に絶たれることとなった。鹿介の死後、その遺児である幸元は放浪生活を経て、慶長年間に入って伊丹鴻池で酒造業を営むようになった。当地の名を取って名を鴻池新六と改めたこの幸元こそが、後の鴻池財閥の始祖となったという。


フィクションにおける山中鹿介

今のところ主役になったりする作品は多くなく、モブキャラとしての出演が多い縁の下の力持ち的な役割を担っている。


戦国BASARAシリーズ

戦国BASARA4に出演。表記は「山中鹿之介」。

上記の美少年説を元にしているのかキャラデザインは美少年であり、今回のショタ枠の一人。


戦国無双シリーズ

詳細は『山中鹿介(戦国無双)』を参照。


信長の野望シリーズ

群雄伝から登場。「山中鹿之介」表記が用いられている。群雄伝は政治・武力にも優れた優れたスーパーキャラだったがのちのシリーズでは政治力は壊滅的になっている。


太閤立志伝シリーズ

Ⅰから登場。こちらも「山中鹿之介」表記。政治(特に内政)能力は期待できないが個人戦、軍団戦どちらもこなせる中々優秀な人材で、しかも尼子家が簡単に滅んで浪人しがちなのでリクルート候補に挙がりがち。Ⅱでは主人公と鍛錬次第で群雄伝時代のようなオールマイティ武将になれる。

Ⅳ以降では専用イベントが中々豊富なキャラ、主人公スタートすると冒頭から主家に次々と不幸イベントが襲い掛かるが、それを乗り越えると尼子家の再興に成功できる。


戦国ランス

エロゲーなので女性キャラ。七難八苦にめげない不幸なデコメガネ。名前は山中子鹿


関連タグ

日本史 戦国武将 中国勢

山中幸盛 山中鹿之助 尼子義久 尼子勝久

アカツキ:講談の彼のセリフを引用する。

別所哲也2014年放送のNHK大河ドラマ軍師官兵衛』で鹿介を演じた

陰徳太平記:毛利氏寄りの軍記物語であるためか散々な扱いを受けており、毛利両川や彼らの配下の引き立て役にされている

概要

生 没:天文14年8月15日(1545年9月20日) - 天正6年7月17日(1578年8月20日)(異説あり)

別 名:幸盛、甚次郎、亀井甚次郎、鹿之助、鹿之介 他

父 母:山中満幸(実父)、亀井秀綱(養父)、なみ(生母、立原綱重娘)

兄 弟:幸高 他

子 女:幸元(鴻池直文)、幸範 他


山陰地方の戦国武将の一人で、実際の名乗りは山中幸盛(ゆきもり)であるが、本記事においては便宜上、世間に広く知られている「鹿介」の通称を用いるものとする。


「山陰の麒麟児」の異名を取り、尼子家中でも特に智勇・忠義に優れた「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人にも数えられるなど、類稀なる武勇と知略の持ち主として知られる。

衰退して行く主家への忠義を貫き、その復興を夢見ながらも悲運の最期を遂げた生き様は、後世山中鹿之助として講談や教科書などの題材とされ、広く人気を得ることとなった。中でも三日月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は非常に有名である。もっともこうした逸話から、一部の歴史ファンからは「ドM」という何とも有り難くない扱いをされる事もままある。

またこれも諸説あるものの、容姿端麗美少年とも伝わっており、その事も人気により拍車をかけている。


出自

生没日については前述の通り異説が存在し、このうち没した年についてはいずれも天正6年である点では一致を見ているものの、7月2日(1578年8月5日、『名将言行録』より)もしくは13日(同年8月16日、『雲陽軍実記』より)とも伝わっており、さらに前者では34歳、後者では39歳とそれぞれ没年齢も相違している。

生年月日については前半生に不明な点が多いため、基本的には没年月日からの逆算となるが、前出の天文14年8月15日については『太閤記』などに見られるもので、これを素直に受け取るならば34歳で没したことになるが、39歳で没したという異説を取る場合、生年は天文9年(1550年)となる。


出生地についても諸説あり、通説では尼子氏の本拠である出雲の月山富田城の麓と伝わるが、『陰徳太平記』によればそれよりさらに西に所在する鰐淵寺(島根県出雲市別所町)であるとされる。さらには尼子氏の勢力圏より遠く離れた、信濃の見上城(長野県南佐久郡南相木村)にも、鹿介が出生したとの言い伝えが残されていたりもする。


生涯

尼子家滅亡前

尼子氏家臣・山中満幸の次男として生まれたとされる。幼名は甚次郎(じんじろう)。

山中氏は尼子氏の庶流とされ、父・満幸も家老として仕えていた事から、鹿介も例に漏れず幼少から尼子氏に仕えた。鹿介が幼い頃に満幸が病没した為に生活は苦しく、そのため賢母と称された母の下、10歳にも満たない頃から合戦に参加し、さらに弓馬や軍法にも親しむ日々を送っていた。16歳の時、主君・尼子義久による山名攻めに従軍、豪傑として名高かった山名氏配下の豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取る殊勲を上げている。

その後、尼子氏の重臣・亀井秀綱の養子となっていた時期もあったが、やがて実家の山中氏へと戻り、永禄3年(1560年)に病弱だった兄・幸高から家督を譲られた。


鹿介が家督を継いだ当時、中国地方では毛利元就陶晴賢大内義長らを滅ぼして大内領を得てからその勢力を着々と広げており、かつては毛利氏を遥かに凌ぐ勢いだった尼子氏でさえも、本国出雲が毛利軍の脅威にさらされる状態にあった。

永禄6年(1563年)にはいよいよ毛利氏による出雲攻めが本格化し、鹿介も尼子軍に従軍して白鹿城の戦いなどで奮戦、名立たる武将の首級を上げて、終には生涯不敗の武将・吉川元春を撤退に追い込んだこともあった。永禄8年(1565年)の秋には、月山富田城攻めに毛利方として参陣していた石見の国人で、武名高かった品川将員(大膳、益田藤兼の配下)と一騎打ちに及び、これを討ち取るなどの活躍も見せた。


しかし、そんな鹿介の奮戦も全体の戦況に大きな影響を及ぼすものではなく、1年半余りにも及ぶ月山富田城での持久戦は主君・義久の毛利氏への降伏という結果に終わり、戦国大名としての尼子氏は一時的に滅亡を迎えることとなる。そこから、鹿介の尼子氏再興の日々が始まるのであった。


尼子氏再興運動(1度目)

浪人の身の上となった鹿介は、その後2年近くに亘り雌伏の時を窺うこととなる。再び彼の名が歴史上に現れたのは永禄11年(1568年)のことで、鹿介は京で僧になっていた尼子勝久(尼子義久のはとこで、かつて新宮党事件で討たれた尼子誠久の遺児に当たる)を還俗させて擁立。さらに諸国に逃散していた尼子氏の遺臣を糾合し、主家再興に向けて動き始める。


そして翌永禄12年(1569年)、元就が北九州支配を狙い豊後の大友宗麟と戦端を開いたのを好機と見た鹿介は、但馬の山名祐豊の助力も借りつつ遂に出雲へ侵攻を開始する。

出雲入りを果たした鹿介ら尼子再興軍は、忠山の砦より檄を発し国内に潜伏していた旧臣らを参集させ、わずか1週間足らずで3000にまで膨れ上がった軍勢はまず新山城を攻略。さらに宍道湖北岸に拠点として末次城を築き、出雲のみならず備後・備中や伯耆などへも勢力を拡大していった。

当時大友氏との戦いに追われていたとはいえ、毛利氏もこの動きに対して全くの無策だった訳ではなく、討伐軍を度々差し向けているものの、尼子再興軍はこれを時に打ち破り、また時には自陣営に引き込むことで、戦局を優位に進めていた。


一方、宗麟は重臣の吉岡宗歓(長増)の献策を容れ、客将であった大内輝弘(大内義隆の従兄弟)を豊後から海路周防を攻撃させ、さらに勝久のみならず備前の浦上宗景とも連携することで、元就を挟み撃ちにした。

このような状況に至り、支配体制の危機を感じた元就は、九州の戦線を放棄し尼子再興軍の鎮圧を優先させることを決断。永禄13年(1570年)に入って間もなく、尼子再興軍が攻略を続けていた月山富田城へと進軍を開始する。これを迎え撃つべく尼子再興軍は布部にて迎撃の構えを見せ、2月には当地にて激戦が繰り広げられるも、最終的に毛利軍が尼子再興軍を破り、落城寸前であった月山富田城を解放するに至る。


この敗戦を機に尼子再興軍の勢力は一時的に衰え、その後元就が重病に倒れたことにより手薄となった隙を突いて再度の反攻に打って出るものの、その勢いもまた一時的なものでしかなく、元亀2年(1571年)8月には再興軍の盟主であった勝久が出雲を追われ、鹿介もまた吉川元春に敗れ、尾高城に幽閉されてしまう。鹿介は謀略を巡らし脱出に成功するも、1度目の再興運動はここに惨憺たる結果に終わった。


尼子氏再興運動(2度目)

一旦隠岐へ逃れた鹿介は、その後但馬にて潜伏生活を送り、先の敗北から1年余り後の元亀4年(1573年)に入って再び尼子氏再興に向けて動き始める。因幡を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を企図していた鹿介は、因幡山名氏の山名豊国と結託し勢力を拡大、わずか半年余り後の天正元年(1573年)8月から9月にかけて、毛利方の武田高信が守る鳥取城を攻略し、これを手中に収めた。

その後鹿介は10日で15城を攻略するなど、瞬く間に因幡東部を勢力下に収めるものの、それから間もなく鳥取城に入っていた豊国が、調略により毛利方へ寝返ったことで、一転その勢力も不安定なものとなってしまった。この予期せぬ劣勢を取り戻すべく、鹿介はその後も軍事行動や反毛利勢力との連携を強化し、柴田勝家を通じて織田信長との繋がりを持ったのもこの時期のことであった。


しかし態勢を立て直し切れないまま、天正3年(1575年)には尼子再興軍を支援してきた山名祐豊も、当時領地を脅かしていた織田氏との対抗や、甥の豊国の勧めもあり毛利輝元と和睦(芸但和睦)を結び、これによって尼子再興軍はさらに苦境に追い込まれることとなる。

京都への道を確保すべく、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)に拠点を移し抵抗を続けていた鹿介も、毛利軍の東因幡侵攻や周辺の支援勢力の滅亡・衰退により孤立化、翌天正4年(1576年)5月頃に因幡からの撤退を余儀なくされた。2度目の尼子再興活動も、結局は実を結ぶことなく終わったのである。


尼子氏再興運動(3度目)

京都に逃れた鹿介らは信長に謁見。この時、信長からは「良き男」と称され「四十里鹿毛」という駿馬を賜ったとされる。これ以降、鹿介ら尼子再興軍は織田の傘下に入る形で、尼子氏の再興を目指すこととなる。

天正4年には明智光秀に従い丹波攻めへ参加、さらに天正5年(1577年)には織田信忠の下、大和攻めに従軍。松永久秀の籠る信貴山城攻略に当たり二番乗りを果たすなどの功績を上げている。この頃、光秀からはその戦いぶりに対し苦言されたとも言われる。


そして同年10月、羽柴秀吉に播磨攻めの命が下ったことで、尼子再興軍も羽柴軍と共に進軍を開始し、その年の暮れには要衝の上月城を攻略。鹿介と勝久らはそこを拠点とし、隣接する美作の国人に対する調略を開始した。年が明けた天正6年(1578年)1月には宇喜多氏による攻撃を受けるも、鹿介は夜討ちにてこれを打ち破っている。

しかし、またここでも予期せぬ事態が起こる。同年2月、三木城の別所長治が突如信長に叛旗を翻し、これを好機と見た毛利氏も急遽播磨に攻め込み、3万もの大軍で上月城を包囲してしまったのである。秀吉も荒木村重らと共に救援に向かったが、信長から長治の討伐を優先するよう厳命され、結果孤立無援となった上月城は、2カ月余りに亘る籠城戦の末、天正6年7月に毛利軍に降伏した。


悲運の最期

降伏の条件として主君・勝久は切腹を命ぜられた。主君の助命に尽力しながらもそれを果たせなかった鹿介は、勝久との別れの際に万策尽きたことを詫びつつ、「自らも吉川元春と刺し違えて後を追うつもりである」と涙ながらに申し立てたという。

それに対し勝久からは、「わずかな間ながらも尼子の大将として良い夢を見させてもらった」と感謝の言葉を贈られると共に、自らの命と引き換えに部下の命を救えるならば本望であるとして、また元春も智勇に優れた武将ゆえ差し違える機会も巡って来ないだろうとして、「生き延びて別の尼子の庶子の下で尼子再興を目指して欲しい」と諭されたとされる。


降伏の後、鹿介は叔父・立原久綱と共に生け捕りとなり、輝元が在陣していた備中松山城へと護送されることとなる。しかしその途上で、備中の合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の手により謀殺されてしまった。

謀殺に際し、毛利一門として鹿介と度々干戈を交えた小早川隆景は、その器量を高く評価しながらも武士として信の置ける者ではないとして、強硬に殺害を主張したとされる一方、輝元が主導したともされる。いずれにせよ輝元に、鹿介を生かす意思は全くなかったことだけは確かである。


ともあれ、尼子再興軍の中心的人物であった鹿介の死により、尼子氏再興の望みは完全に絶たれることとなった。鹿介の死後、その遺児である幸元は放浪生活を経て、慶長年間に入って伊丹鴻池で酒造業を営むようになった。当地の名を取って名を鴻池新六と改めたこの幸元こそが、後の鴻池財閥の始祖となったという。


フィクションにおける山中鹿介

今のところ主役になったりする作品は多くなく、モブキャラとしての出演が多い縁の下の力持ち的な役割を担っている。


戦国BASARAシリーズ

戦国BASARA4に出演。表記は「山中鹿之介」。

上記の美少年説を元にしているのかキャラデザインは美少年であり、今回のショタ枠の一人。


信長の野望シリーズ

群雄伝から登場。「山中鹿之介」表記が用いられている。群雄伝は政治・武力にも優れた優れたスーパーキャラだったがのちのシリーズでは政治力は壊滅的になっている。


太閤立志伝シリーズ

Ⅰから登場。こちらも「山中鹿之介」表記。政治(特に内政)能力は期待できないが個人戦、軍団戦どちらもこなせる中々優秀な人材で、しかも尼子家が簡単に滅んで浪人しがちなのでリクルート候補に挙がりがち。Ⅱでは主人公と鍛錬次第で群雄伝時代のようなオールマイティ武将になれる。

Ⅳ以降では専用イベントが中々豊富なキャラ、主人公スタートすると冒頭から主家に次々と不幸イベントが襲い掛かるが、それを乗り越えると尼子家の再興に成功できる。


戦国ランス

エロゲーなので女性キャラ。七難八苦にめげない不幸なデコメガネ。名前は山中子鹿


関連タグ

日本史 戦国武将 中国勢

山中幸盛 山中鹿之助 尼子義久 尼子勝久

アカツキ:講談の彼のセリフを引用する。

別所哲也2014年放送のNHK大河ドラマ軍師官兵衛』で鹿介を演じた

陰徳太平記:毛利氏寄りの軍記物語であるためか散々な扱いを受けており、毛利両川や彼らの配下の引き立て役にされている

コメント

コメントはまだありません

pixivに投稿されたイラスト

すべて見る

pixivに投稿された小説

すべて見る
  • 刻まれた創

    …これなのだ。隆景が、兄を恐ろしいと思うのは。 (本文より抜粋) 尾高城で、手合わせをする元春と鹿介のお話です。 過去に投稿した作品への閲覧、いいね・ブックマーク、ありがとうございます! とても嬉しいです!
  • 毛利の爺と尼子の鹿

    涼を得る

    転生ネタ。 暑い日のお話。 全然殺伐としていない二人です。 腐向けのつもりはありませんが、そこそこ二人が仲良くなってほしいという願望のままに書いています。 自分だけが楽しいシリーズなので、需要があれば嬉しいです。
  • 秋の鹿は笛を吹く

    散 髪

    現パロ設定。鹿介(出版社編集バイト)、爺さま(時代小説家兼恋愛小説家)です。内容は爺さんと介護ヘルパー。 閲覧・ブックマーク・お気に入り等、ありがとうございます。二次創作の励みになっております。
  • 秋の鹿は笛を吹く

    剃刀

    現パロ、爺さん(歴史小説家兼恋愛小説家)と山中君(介護ヘルパー、出版社バイト兼家政夫)の話。爺さんが剃刀で怪我するので苦手な方はご注意下さい。今回、ちょっとシリアス。 閲覧、ブックマーク、いいね、誠にありがとうございます。
  • 落月屋梁へ至る

    利三の顔にすっころび初めて無双シリーズを予約し、発売カウントダウンの公式イラストで頭を殴られ、イベントムービーでトドメを刺されました。 「暴れ鹿」ムービーの後にあったかもしれない鹿介と利三の短いお話です。 捏造と妄想と幻覚、主に利三の口調詐欺です。キャラクター理解がまだまだ浅いかもしれませんが、何卒ご容赦ください。
  • 毛利の爺と尼子の鹿

    雨後へ

    転生ネタ。 前回(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15782171)のちょっと後までの話。 今生は仲良くなりたいけれど、まだ踏み込めきれてなかった鹿の話。 腐向けのつもりはありませんが、そこそこ二人が仲良くなってほしいという願望のままに書いています。 普通に敵意なしで過ごしてます、ご注意ください。
  • 鷹に叢雲、白萩の鹿

    猟犬の賭

    注意))冒頭にオリキャラが出ます。苦手な方は、閲覧ご注意下さい。時間軸は尾高城脱出後です。 テーマ『アクションシーンを書く(その3)』『元春兄貴の思惑』『爺さんと息子のほのぼの』私の場合、脳内で山中君と元春兄貴を対戦させると、何故かこうなってしまいます。理由を従姉妹に尋ねると、脳筋だからだそうです。ごめんな、山中君…。本当は尾高城でと思いましたが、やることが、やることが多い……。 閲覧、ありがとうございます。本当は二部に分ける予定でしたが、それだと話が上手く繋がらないので、長くなってしまいした。冗長な小話を読んでいただき、ありがとうございます。
  • 無題

    初めて、文字というものを書きました。 小早川隆景という人物像を自分なりに解釈したくて、 テーマは決めないで書かせていただきました。 私から見る戦国無双の小早川は、達観とした姿と子供臭さ(この場合は末っ子感)を感じます。 しかし、実際は誰よりも冷徹でいてほしい……。あくまでも、いてほしい、に留り、そうでなはない。なりきれない未熟さもある。 そこに愛らしさが込み上げてきます。 作中では、鹿介に代弁してもらいました。 変わって、鹿介のきちんとした面を書きたくて、いろいろと考えながら書きました。 月山富田城の「爺さん、上手いように使っている」発言が印象的で、この人は物事をしっかりと見据える人なんだと感じました。 いろいろとつたない文章ですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。
  • 毛利の爺と尼子の鹿

    夕立

    転生ネタ。 突然の雨に降られた鹿のお話。 今回の爺さんはちょっと世話焼き。 だんだんと距離の近づく二人。 腐向けのつもりはありませんが、そこそこ二人が仲良くなってほしいという願望のままに書いています。 自分だけが楽しいシリーズなので、需要があれば嬉しいです。
  • 毛利家と鹿介でコピペ改変

    『戦国無双5』の毛利家と鹿介でコピペネタを改変したもの。 キャラ崩壊あり、時代背景・設定無視など、なんでも許せる人向け。
    11,692文字pixiv小説作品
  • 鷹に叢雲、白萩の鹿

    月下問答Ⅲ

    テーマ『坊っちゃんと山中君が話したら』。ちょっとホラーが入ってます。苦手な方はスルーしてください。あと、どうでもいい話ですが、筆者に甥っ子が誕生した際、お祝いに五月人形(山中鹿介モデル)を贈ろうとしたら、姉より『うちの息子をMにする気か。』と断られました。
    11,020文字pixiv小説作品
  • 秋の鹿は笛を吹く

    同居人

    注意: 猫(オリキャラ)が出てきますが、猫は猫であって、猫以外の何者でもありません。あしからず。本当は猫と爺さんを戯れさせたかっただけです(趣味)。今回、説明回のため長くなりました。すみません。 一応、このシリーズのざっくりあらすじは、『前世の記憶があるけど、余りにも黒歴史なので、記憶のないフリをしている元就爺さんと爺さんに前世の記憶があるかもと、実は疑っている山中君』です。 閲覧、いいね、ブックマーク、ありがとうごさいます。今回、文章長くてすみません。
  • 戦国乱世が行方不明シリーズ

    爺さんと子どもたち

    注意!!)) ゲームのネタバレあります。例の如く、戦国乱世は行方不明です。元就爺様が只の爺さま。山中君が只の好青年。ダークサイドのない明智さん。斎藤さんが只の主大好きさんです。筆者としては『近所の爺さん』と『ホテイシメジ』が書けて満足です。 ちなみに、隆景君が小早川家に養子に行ったのは、まだ徳寿丸と呼ばれていた頃なのですが、混乱しそうなので、隆景君で通しました。あしからず。 閲覧、ブックマーク、いいね、ありがとうございます。
  • 鷹に叢雲、白萩の鹿

    猟犬と鹿

    今回のテーマ『アクションシーン』『格好いい山中君と元春兄貴』 時間軸は尾高城、脱出前です。 前回から閲覧、ブックマーク、いいね、ありがとうございます。ちなみに『貞永式目』は『御成敗式目』のことです。あと筆者の趣味なのですが、ここの元春兄貴はプライベートは『俺』で、仕事の時は『私』と使い分ける人です。
  • 秋の鹿は笛を吹く

    繁縷

    閲覧注意)) 現パロです。ぐだぐだ爺さんと、今も昔も振り回される山中君の話。今回、湯たんぽ的な意味で密着率高めですので、くれぐれも御注意下さい。 閲覧、ありがとうございます。ちなみにハコベのネタは、甥っ子の自然体験教室で実際に見せてもらいました。本当に綺麗でした。
  • 月は見ていた それぞれの想いを (鹿利)

    ※いつもの光秀×利三とは別の話になります、単体で読んでください。 あくまでも戦国無双5ベースになります。 思いのままに書き殴ったので考察、設定など食い違いあるかと思いますが広い心で見て頂けると幸いです。 戦国時代に中秋の名月って言うのかよくわからないですが…色々と気になる事はあったのですが、そのまま書き殴りました。 多分この時期だしネタ被りしているかと思いますが生暖かい目で見てください。 この後の話を続けて書こうかと思ったのですが、せっかくなので今日に間に合わせようと思って切り上げました。 エチエチではないです(珍しく) いつも、イイね、ブクマありがとうござます。
  • 戦国乱世が行方不明シリーズ

    爺さんは通常運行

    『爺さんと遭遇』の続きです。例のごとく戦国乱世は旅行中、山中君が普通に好青年。爺さんが少し昔を思い出すだけの話です。筆者が元就受け書きですが、『LIKE』はあるが『LOVE』はないのでそういう展開にはなりません。今回、ややシリアスが申し訳程度に入ってます。
  • オリオンの魔女は、優雅に笑う。

    涼風

    女体化注意!!元就爺さんが婆さんで、元春兄貴が姉貴です!! テーマ:『爺さんが婆さんで、元春が娘だったら。』今回は元春姉貴のお仕事について、筆者の妄想はなはだしいので、苦手な方はスルー、お願いいたします。ちなみに作中に出てくる砥茶色(とのちゃいろ)は砥石の色のことです。 閲覧、ありがとうございます。筆者の妄想話を読んでいただき、本当にありがとうございます。 追記 『涼風』と『彼女の仕事』を併合しました。

このタグがついたpixivの作品閲覧データ

山中鹿介

8

やまなかしかのすけ

山中鹿介(幸盛)とは、中国地方の戦国武将。尼子氏に仕え、主家の滅亡後もその再興のため度々兵を挙げ、仇敵である毛利氏に反攻を繰り返した。財閥で有名な鴻池氏の祖でもある。(1540年/1545年 - 1578年)
山中鹿介(幸盛)とは、中国地方の戦国武将。尼子氏に仕え、主家の滅亡後もその再興のため度々兵を挙げ、仇敵である毛利氏に反攻を繰り返した。財閥で有名な鴻池氏の祖でもある。(1540年/1545年 - 1578年)

概要

生 没:天文14年8月15日(1545年9月20日) - 天正6年7月17日(1578年8月20日)(異説あり)

別 名:幸盛、甚次郎、亀井甚次郎、鹿之助、鹿之介 他

父 母:山中満幸(実父)、亀井秀綱(養父)、なみ(生母、立原綱重娘)

兄 弟:幸高 他

子 女:幸元(鴻池直文)、幸範 他


山陰地方の戦国武将の一人で、実際の名乗りは山中幸盛(ゆきもり)であるが、本記事においては便宜上、世間に広く知られている「鹿介」の通称を用いるものとする。


「山陰の麒麟児」の異名を取り、尼子家中でも特に智勇・忠義に優れた「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人にも数えられるなど、類稀なる武勇と知略の持ち主として知られる。

衰退して行く主家への忠義を貫き、その復興を夢見ながらも悲運の最期を遂げた生き様は、後世山中鹿之助として講談や教科書などの題材とされ、広く人気を得ることとなった。中でも三日月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は非常に有名である。もっともこうした逸話から、一部の歴史ファンからは「ドM」という何とも有り難くない扱いをされる事もままある。

またこれも諸説あるものの、容姿端麗美少年とも伝わっており、その事も人気により拍車をかけている。


出自

生没日については前述の通り異説が存在し、このうち没した年についてはいずれも天正6年である点では一致を見ているものの、7月2日(1578年8月5日、『名将言行録』より)もしくは13日(同年8月16日、『雲陽軍実記』より)とも伝わっており、さらに前者では34歳、後者では39歳とそれぞれ没年齢も相違している。

生年月日については前半生に不明な点が多いため、基本的には没年月日からの逆算となるが、前出の天文14年8月15日については『太閤記』などに見られるもので、これを素直に受け取るならば34歳で没したことになるが、39歳で没したという異説を取る場合、生年は天文9年(1550年)となる。


出生地についても諸説あり、通説では尼子氏の本拠である出雲の月山富田城の麓と伝わるが、『陰徳太平記』によればそれよりさらに西に所在する鰐淵寺(島根県出雲市別所町)であるとされる。さらには尼子氏の勢力圏より遠く離れた、信濃の見上城(長野県南佐久郡南相木村)にも、鹿介が出生したとの言い伝えが残されていたりもする。


生涯

尼子家滅亡前

尼子氏家臣・山中満幸の次男として生まれたとされる。幼名は甚次郎(じんじろう)。

山中氏は尼子氏の庶流とされ、父・満幸も家老として仕えていた事から、鹿介も例に漏れず幼少から尼子氏に仕えた。鹿介が幼い頃に満幸が病没した為に生活は苦しく、そのため賢母と称された母の下、10歳にも満たない頃から合戦に参加し、さらに弓馬や軍法にも親しむ日々を送っていた。16歳の時、主君・尼子義久による山名攻めに従軍、豪傑として名高かった山名氏配下の豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取る殊勲を上げている。

その後、尼子氏の重臣・亀井秀綱の養子となっていた時期もあったが、やがて実家の山中氏へと戻り、永禄3年(1560年)に病弱だった兄・幸高から家督を譲られた。


鹿介が家督を継いだ当時、中国地方では毛利元就陶晴賢大内義長らを滅ぼして大内領を得てからその勢力を着々と広げており、かつては毛利氏を遥かに凌ぐ勢いだった尼子氏でさえも、本国出雲が毛利軍の脅威にさらされる状態にあった。

永禄6年(1563年)にはいよいよ毛利氏による出雲攻めが本格化し、鹿介も尼子軍に従軍して白鹿城の戦いなどで奮戦、名立たる武将の首級を上げて、終には生涯不敗の武将・吉川元春を撤退に追い込んだこともあった。永禄8年(1565年)の秋には、月山富田城攻めに毛利方として参陣していた石見の国人で、武名高かった品川将員(大膳、益田藤兼の配下)と一騎打ちに及び、これを討ち取るなどの活躍も見せた。


しかし、そんな鹿介の奮戦も全体の戦況に大きな影響を及ぼすものではなく、1年半余りにも及ぶ月山富田城での持久戦は主君・義久の毛利氏への降伏という結果に終わり、戦国大名としての尼子氏は一時的に滅亡を迎えることとなる。そこから、鹿介の尼子氏再興の日々が始まるのであった。


尼子氏再興運動(1度目)

浪人の身の上となった鹿介は、その後2年近くに亘り雌伏の時を窺うこととなる。再び彼の名が歴史上に現れたのは永禄11年(1568年)のことで、鹿介は京で僧になっていた尼子勝久(尼子義久のはとこで、かつて新宮党事件で討たれた尼子誠久の遺児に当たる)を還俗させて擁立。さらに諸国に逃散していた尼子氏の遺臣を糾合し、主家再興に向けて動き始める。


そして翌永禄12年(1569年)、元就が北九州支配を狙い豊後の大友宗麟と戦端を開いたのを好機と見た鹿介は、但馬の山名祐豊の助力も借りつつ遂に出雲へ侵攻を開始する。

出雲入りを果たした鹿介ら尼子再興軍は、忠山の砦より檄を発し国内に潜伏していた旧臣らを参集させ、わずか1週間足らずで3000にまで膨れ上がった軍勢はまず新山城を攻略。さらに宍道湖北岸に拠点として末次城を築き、出雲のみならず備後・備中や伯耆などへも勢力を拡大していった。

当時大友氏との戦いに追われていたとはいえ、毛利氏もこの動きに対して全くの無策だった訳ではなく、討伐軍を度々差し向けているものの、尼子再興軍はこれを時に打ち破り、また時には自陣営に引き込むことで、戦局を優位に進めていた。


一方、宗麟は重臣の吉岡宗歓(長増)の献策を容れ、客将であった大内輝弘(大内義隆の従兄弟)を豊後から海路周防を攻撃させ、さらに勝久のみならず備前の浦上宗景とも連携することで、元就を挟み撃ちにした。

このような状況に至り、支配体制の危機を感じた元就は、九州の戦線を放棄し尼子再興軍の鎮圧を優先させることを決断。永禄13年(1570年)に入って間もなく、尼子再興軍が攻略を続けていた月山富田城へと進軍を開始する。これを迎え撃つべく尼子再興軍は布部にて迎撃の構えを見せ、2月には当地にて激戦が繰り広げられるも、最終的に毛利軍が尼子再興軍を破り、落城寸前であった月山富田城を解放するに至る。


この敗戦を機に尼子再興軍の勢力は一時的に衰え、その後元就が重病に倒れたことにより手薄となった隙を突いて再度の反攻に打って出るものの、その勢いもまた一時的なものでしかなく、元亀2年(1571年)8月には再興軍の盟主であった勝久が出雲を追われ、鹿介もまた吉川元春に敗れ、尾高城に幽閉されてしまう。鹿介は謀略を巡らし脱出に成功するも、1度目の再興運動はここに惨憺たる結果に終わった。


尼子氏再興運動(2度目)

一旦隠岐へ逃れた鹿介は、その後但馬にて潜伏生活を送り、先の敗北から1年余り後の元亀4年(1573年)に入って再び尼子氏再興に向けて動き始める。因幡を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を企図していた鹿介は、因幡山名氏の山名豊国と結託し勢力を拡大、わずか半年余り後の天正元年(1573年)8月から9月にかけて、毛利方の武田高信が守る鳥取城を攻略し、これを手中に収めた。

その後鹿介は10日で15城を攻略するなど、瞬く間に因幡東部を勢力下に収めるものの、それから間もなく鳥取城に入っていた豊国が、調略により毛利方へ寝返ったことで、一転その勢力も不安定なものとなってしまった。この予期せぬ劣勢を取り戻すべく、鹿介はその後も軍事行動や反毛利勢力との連携を強化し、柴田勝家を通じて織田信長との繋がりを持ったのもこの時期のことであった。


しかし態勢を立て直し切れないまま、天正3年(1575年)には尼子再興軍を支援してきた山名祐豊も、当時領地を脅かしていた織田氏との対抗や、甥の豊国の勧めもあり毛利輝元と和睦(芸但和睦)を結び、これによって尼子再興軍はさらに苦境に追い込まれることとなる。

京都への道を確保すべく、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)に拠点を移し抵抗を続けていた鹿介も、毛利軍の東因幡侵攻や周辺の支援勢力の滅亡・衰退により孤立化、翌天正4年(1576年)5月頃に因幡からの撤退を余儀なくされた。2度目の尼子再興活動も、結局は実を結ぶことなく終わったのである。


尼子氏再興運動(3度目)

京都に逃れた鹿介らは信長に謁見。この時、信長からは「良き男」と称され「四十里鹿毛」という駿馬を賜ったとされる。これ以降、鹿介ら尼子再興軍は織田の傘下に入る形で、尼子氏の再興を目指すこととなる。

天正4年には明智光秀に従い丹波攻めへ参加、さらに天正5年(1577年)には織田信忠の下、大和攻めに従軍。松永久秀の籠る信貴山城攻略に当たり二番乗りを果たすなどの功績を上げている。この頃、光秀からはその戦いぶりに対し苦言されたとも言われる。


そして同年10月、羽柴秀吉に播磨攻めの命が下ったことで、尼子再興軍も羽柴軍と共に進軍を開始し、その年の暮れには要衝の上月城を攻略。鹿介と勝久らはそこを拠点とし、隣接する美作の国人に対する調略を開始した。年が明けた天正6年(1578年)1月には宇喜多氏による攻撃を受けるも、鹿介は夜討ちにてこれを打ち破っている。

しかし、またここでも予期せぬ事態が起こる。同年2月、三木城の別所長治が突如信長に叛旗を翻し、これを好機と見た毛利氏も急遽播磨に攻め込み、3万もの大軍で上月城を包囲してしまったのである。秀吉も荒木村重らと共に救援に向かったが、信長から長治の討伐を優先するよう厳命され、結果孤立無援となった上月城は、2カ月余りに亘る籠城戦の末、天正6年7月に毛利軍に降伏した。


悲運の最期

降伏の条件として主君・勝久は切腹を命ぜられた。主君の助命に尽力しながらもそれを果たせなかった鹿介は、勝久との別れの際に万策尽きたことを詫びつつ、「自らも吉川元春と刺し違えて後を追うつもりである」と涙ながらに申し立てたという。

それに対し勝久からは、「わずかな間ながらも尼子の大将として良い夢を見させてもらった」と感謝の言葉を贈られると共に、自らの命と引き換えに部下の命を救えるならば本望であるとして、また元春も智勇に優れた武将ゆえ差し違える機会も巡って来ないだろうとして、「生き延びて別の尼子の庶子の下で尼子再興を目指して欲しい」と諭されたとされる。


降伏の後、鹿介は叔父・立原久綱と共に生け捕りとなり、輝元が在陣していた備中松山城へと護送されることとなる。しかしその途上で、備中の合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の手により謀殺されてしまった。

謀殺に際し、毛利一門として鹿介と度々干戈を交えた小早川隆景は、その器量を高く評価しながらも武士として信の置ける者ではないとして、強硬に殺害を主張したとされる一方、輝元が主導したともされる。いずれにせよ輝元に、鹿介を生かす意思は全くなかったことだけは確かである。


ともあれ、尼子再興軍の中心的人物であった鹿介の死により、尼子氏再興の望みは完全に絶たれることとなった。鹿介の死後、その遺児である幸元は放浪生活を経て、慶長年間に入って伊丹鴻池で酒造業を営むようになった。当地の名を取って名を鴻池新六と改めたこの幸元こそが、後の鴻池財閥の始祖となったという。


フィクションにおける山中鹿介

今のところ主役になったりする作品は多くなく、モブキャラとしての出演が多い縁の下の力持ち的な役割を担っている。


戦国BASARAシリーズ

戦国BASARA4に出演。表記は「山中鹿之介」。

上記の美少年説を元にしているのかキャラデザインは美少年であり、今回のショタ枠の一人。


戦国無双シリーズ

詳細は『山中鹿介(戦国無双)』を参照。


信長の野望シリーズ

群雄伝から登場。「山中鹿之介」表記が用いられている。群雄伝は政治・武力にも優れた優れたスーパーキャラだったがのちのシリーズでは政治力は壊滅的になっている。


太閤立志伝シリーズ

Ⅰから登場。こちらも「山中鹿之介」表記。政治(特に内政)能力は期待できないが個人戦、軍団戦どちらもこなせる中々優秀な人材で、しかも尼子家が簡単に滅んで浪人しがちなのでリクルート候補に挙がりがち。Ⅱでは主人公と鍛錬次第で群雄伝時代のようなオールマイティ武将になれる。

Ⅳ以降では専用イベントが中々豊富なキャラ、主人公スタートすると冒頭から主家に次々と不幸イベントが襲い掛かるが、それを乗り越えると尼子家の再興に成功できる。


戦国ランス

エロゲーなので女性キャラ。七難八苦にめげない不幸なデコメガネ。名前は山中子鹿


関連タグ

日本史 戦国武将 中国勢

山中幸盛 山中鹿之助 尼子義久 尼子勝久

アカツキ:講談の彼のセリフを引用する。

別所哲也2014年放送のNHK大河ドラマ軍師官兵衛』で鹿介を演じた

陰徳太平記:毛利氏寄りの軍記物語であるためか散々な扱いを受けており、毛利両川や彼らの配下の引き立て役にされている

概要

生 没:天文14年8月15日(1545年9月20日) - 天正6年7月17日(1578年8月20日)(異説あり)

別 名:幸盛、甚次郎、亀井甚次郎、鹿之助、鹿之介 他

父 母:山中満幸(実父)、亀井秀綱(養父)、なみ(生母、立原綱重娘)

兄 弟:幸高 他

子 女:幸元(鴻池直文)、幸範 他


山陰地方の戦国武将の一人で、実際の名乗りは山中幸盛(ゆきもり)であるが、本記事においては便宜上、世間に広く知られている「鹿介」の通称を用いるものとする。


「山陰の麒麟児」の異名を取り、尼子家中でも特に智勇・忠義に優れた「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人にも数えられるなど、類稀なる武勇と知略の持ち主として知られる。

衰退して行く主家への忠義を貫き、その復興を夢見ながらも悲運の最期を遂げた生き様は、後世山中鹿之助として講談や教科書などの題材とされ、広く人気を得ることとなった。中でも三日月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は非常に有名である。もっともこうした逸話から、一部の歴史ファンからは「ドM」という何とも有り難くない扱いをされる事もままある。

またこれも諸説あるものの、容姿端麗美少年とも伝わっており、その事も人気により拍車をかけている。


出自

生没日については前述の通り異説が存在し、このうち没した年についてはいずれも天正6年である点では一致を見ているものの、7月2日(1578年8月5日、『名将言行録』より)もしくは13日(同年8月16日、『雲陽軍実記』より)とも伝わっており、さらに前者では34歳、後者では39歳とそれぞれ没年齢も相違している。

生年月日については前半生に不明な点が多いため、基本的には没年月日からの逆算となるが、前出の天文14年8月15日については『太閤記』などに見られるもので、これを素直に受け取るならば34歳で没したことになるが、39歳で没したという異説を取る場合、生年は天文9年(1550年)となる。


出生地についても諸説あり、通説では尼子氏の本拠である出雲の月山富田城の麓と伝わるが、『陰徳太平記』によればそれよりさらに西に所在する鰐淵寺(島根県出雲市別所町)であるとされる。さらには尼子氏の勢力圏より遠く離れた、信濃の見上城(長野県南佐久郡南相木村)にも、鹿介が出生したとの言い伝えが残されていたりもする。


生涯

尼子家滅亡前

尼子氏家臣・山中満幸の次男として生まれたとされる。幼名は甚次郎(じんじろう)。

山中氏は尼子氏の庶流とされ、父・満幸も家老として仕えていた事から、鹿介も例に漏れず幼少から尼子氏に仕えた。鹿介が幼い頃に満幸が病没した為に生活は苦しく、そのため賢母と称された母の下、10歳にも満たない頃から合戦に参加し、さらに弓馬や軍法にも親しむ日々を送っていた。16歳の時、主君・尼子義久による山名攻めに従軍、豪傑として名高かった山名氏配下の豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取る殊勲を上げている。

その後、尼子氏の重臣・亀井秀綱の養子となっていた時期もあったが、やがて実家の山中氏へと戻り、永禄3年(1560年)に病弱だった兄・幸高から家督を譲られた。


鹿介が家督を継いだ当時、中国地方では毛利元就陶晴賢大内義長らを滅ぼして大内領を得てからその勢力を着々と広げており、かつては毛利氏を遥かに凌ぐ勢いだった尼子氏でさえも、本国出雲が毛利軍の脅威にさらされる状態にあった。

永禄6年(1563年)にはいよいよ毛利氏による出雲攻めが本格化し、鹿介も尼子軍に従軍して白鹿城の戦いなどで奮戦、名立たる武将の首級を上げて、終には生涯不敗の武将・吉川元春を撤退に追い込んだこともあった。永禄8年(1565年)の秋には、月山富田城攻めに毛利方として参陣していた石見の国人で、武名高かった品川将員(大膳、益田藤兼の配下)と一騎打ちに及び、これを討ち取るなどの活躍も見せた。


しかし、そんな鹿介の奮戦も全体の戦況に大きな影響を及ぼすものではなく、1年半余りにも及ぶ月山富田城での持久戦は主君・義久の毛利氏への降伏という結果に終わり、戦国大名としての尼子氏は一時的に滅亡を迎えることとなる。そこから、鹿介の尼子氏再興の日々が始まるのであった。


尼子氏再興運動(1度目)

浪人の身の上となった鹿介は、その後2年近くに亘り雌伏の時を窺うこととなる。再び彼の名が歴史上に現れたのは永禄11年(1568年)のことで、鹿介は京で僧になっていた尼子勝久(尼子義久のはとこで、かつて新宮党事件で討たれた尼子誠久の遺児に当たる)を還俗させて擁立。さらに諸国に逃散していた尼子氏の遺臣を糾合し、主家再興に向けて動き始める。


そして翌永禄12年(1569年)、元就が北九州支配を狙い豊後の大友宗麟と戦端を開いたのを好機と見た鹿介は、但馬の山名祐豊の助力も借りつつ遂に出雲へ侵攻を開始する。

出雲入りを果たした鹿介ら尼子再興軍は、忠山の砦より檄を発し国内に潜伏していた旧臣らを参集させ、わずか1週間足らずで3000にまで膨れ上がった軍勢はまず新山城を攻略。さらに宍道湖北岸に拠点として末次城を築き、出雲のみならず備後・備中や伯耆などへも勢力を拡大していった。

当時大友氏との戦いに追われていたとはいえ、毛利氏もこの動きに対して全くの無策だった訳ではなく、討伐軍を度々差し向けているものの、尼子再興軍はこれを時に打ち破り、また時には自陣営に引き込むことで、戦局を優位に進めていた。


一方、宗麟は重臣の吉岡宗歓(長増)の献策を容れ、客将であった大内輝弘(大内義隆の従兄弟)を豊後から海路周防を攻撃させ、さらに勝久のみならず備前の浦上宗景とも連携することで、元就を挟み撃ちにした。

このような状況に至り、支配体制の危機を感じた元就は、九州の戦線を放棄し尼子再興軍の鎮圧を優先させることを決断。永禄13年(1570年)に入って間もなく、尼子再興軍が攻略を続けていた月山富田城へと進軍を開始する。これを迎え撃つべく尼子再興軍は布部にて迎撃の構えを見せ、2月には当地にて激戦が繰り広げられるも、最終的に毛利軍が尼子再興軍を破り、落城寸前であった月山富田城を解放するに至る。


この敗戦を機に尼子再興軍の勢力は一時的に衰え、その後元就が重病に倒れたことにより手薄となった隙を突いて再度の反攻に打って出るものの、その勢いもまた一時的なものでしかなく、元亀2年(1571年)8月には再興軍の盟主であった勝久が出雲を追われ、鹿介もまた吉川元春に敗れ、尾高城に幽閉されてしまう。鹿介は謀略を巡らし脱出に成功するも、1度目の再興運動はここに惨憺たる結果に終わった。


尼子氏再興運動(2度目)

一旦隠岐へ逃れた鹿介は、その後但馬にて潜伏生活を送り、先の敗北から1年余り後の元亀4年(1573年)に入って再び尼子氏再興に向けて動き始める。因幡を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を企図していた鹿介は、因幡山名氏の山名豊国と結託し勢力を拡大、わずか半年余り後の天正元年(1573年)8月から9月にかけて、毛利方の武田高信が守る鳥取城を攻略し、これを手中に収めた。

その後鹿介は10日で15城を攻略するなど、瞬く間に因幡東部を勢力下に収めるものの、それから間もなく鳥取城に入っていた豊国が、調略により毛利方へ寝返ったことで、一転その勢力も不安定なものとなってしまった。この予期せぬ劣勢を取り戻すべく、鹿介はその後も軍事行動や反毛利勢力との連携を強化し、柴田勝家を通じて織田信長との繋がりを持ったのもこの時期のことであった。


しかし態勢を立て直し切れないまま、天正3年(1575年)には尼子再興軍を支援してきた山名祐豊も、当時領地を脅かしていた織田氏との対抗や、甥の豊国の勧めもあり毛利輝元と和睦(芸但和睦)を結び、これによって尼子再興軍はさらに苦境に追い込まれることとなる。

京都への道を確保すべく、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)に拠点を移し抵抗を続けていた鹿介も、毛利軍の東因幡侵攻や周辺の支援勢力の滅亡・衰退により孤立化、翌天正4年(1576年)5月頃に因幡からの撤退を余儀なくされた。2度目の尼子再興活動も、結局は実を結ぶことなく終わったのである。


尼子氏再興運動(3度目)

京都に逃れた鹿介らは信長に謁見。この時、信長からは「良き男」と称され「四十里鹿毛」という駿馬を賜ったとされる。これ以降、鹿介ら尼子再興軍は織田の傘下に入る形で、尼子氏の再興を目指すこととなる。

天正4年には明智光秀に従い丹波攻めへ参加、さらに天正5年(1577年)には織田信忠の下、大和攻めに従軍。松永久秀の籠る信貴山城攻略に当たり二番乗りを果たすなどの功績を上げている。この頃、光秀からはその戦いぶりに対し苦言されたとも言われる。


そして同年10月、羽柴秀吉に播磨攻めの命が下ったことで、尼子再興軍も羽柴軍と共に進軍を開始し、その年の暮れには要衝の上月城を攻略。鹿介と勝久らはそこを拠点とし、隣接する美作の国人に対する調略を開始した。年が明けた天正6年(1578年)1月には宇喜多氏による攻撃を受けるも、鹿介は夜討ちにてこれを打ち破っている。

しかし、またここでも予期せぬ事態が起こる。同年2月、三木城の別所長治が突如信長に叛旗を翻し、これを好機と見た毛利氏も急遽播磨に攻め込み、3万もの大軍で上月城を包囲してしまったのである。秀吉も荒木村重らと共に救援に向かったが、信長から長治の討伐を優先するよう厳命され、結果孤立無援となった上月城は、2カ月余りに亘る籠城戦の末、天正6年7月に毛利軍に降伏した。


悲運の最期

降伏の条件として主君・勝久は切腹を命ぜられた。主君の助命に尽力しながらもそれを果たせなかった鹿介は、勝久との別れの際に万策尽きたことを詫びつつ、「自らも吉川元春と刺し違えて後を追うつもりである」と涙ながらに申し立てたという。

それに対し勝久からは、「わずかな間ながらも尼子の大将として良い夢を見させてもらった」と感謝の言葉を贈られると共に、自らの命と引き換えに部下の命を救えるならば本望であるとして、また元春も智勇に優れた武将ゆえ差し違える機会も巡って来ないだろうとして、「生き延びて別の尼子の庶子の下で尼子再興を目指して欲しい」と諭されたとされる。


降伏の後、鹿介は叔父・立原久綱と共に生け捕りとなり、輝元が在陣していた備中松山城へと護送されることとなる。しかしその途上で、備中の合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の手により謀殺されてしまった。

謀殺に際し、毛利一門として鹿介と度々干戈を交えた小早川隆景は、その器量を高く評価しながらも武士として信の置ける者ではないとして、強硬に殺害を主張したとされる一方、輝元が主導したともされる。いずれにせよ輝元に、鹿介を生かす意思は全くなかったことだけは確かである。


ともあれ、尼子再興軍の中心的人物であった鹿介の死により、尼子氏再興の望みは完全に絶たれることとなった。鹿介の死後、その遺児である幸元は放浪生活を経て、慶長年間に入って伊丹鴻池で酒造業を営むようになった。当地の名を取って名を鴻池新六と改めたこの幸元こそが、後の鴻池財閥の始祖となったという。


フィクションにおける山中鹿介

今のところ主役になったりする作品は多くなく、モブキャラとしての出演が多い縁の下の力持ち的な役割を担っている。


戦国BASARAシリーズ

戦国BASARA4に出演。表記は「山中鹿之介」。

上記の美少年説を元にしているのかキャラデザインは美少年であり、今回のショタ枠の一人。


信長の野望シリーズ

群雄伝から登場。「山中鹿之介」表記が用いられている。群雄伝は政治・武力にも優れた優れたスーパーキャラだったがのちのシリーズでは政治力は壊滅的になっている。


太閤立志伝シリーズ

Ⅰから登場。こちらも「山中鹿之介」表記。政治(特に内政)能力は期待できないが個人戦、軍団戦どちらもこなせる中々優秀な人材で、しかも尼子家が簡単に滅んで浪人しがちなのでリクルート候補に挙がりがち。Ⅱでは主人公と鍛錬次第で群雄伝時代のようなオールマイティ武将になれる。

Ⅳ以降では専用イベントが中々豊富なキャラ、主人公スタートすると冒頭から主家に次々と不幸イベントが襲い掛かるが、それを乗り越えると尼子家の再興に成功できる。


戦国ランス

エロゲーなので女性キャラ。七難八苦にめげない不幸なデコメガネ。名前は山中子鹿


関連タグ

日本史 戦国武将 中国勢

山中幸盛 山中鹿之助 尼子義久 尼子勝久

アカツキ:講談の彼のセリフを引用する。

別所哲也2014年放送のNHK大河ドラマ軍師官兵衛』で鹿介を演じた

陰徳太平記:毛利氏寄りの軍記物語であるためか散々な扱いを受けており、毛利両川や彼らの配下の引き立て役にされている

コメント

コメントはまだありません

pixivに投稿されたイラスト

すべて見る

pixivに投稿された小説

すべて見る
  • 刻まれた創

    …これなのだ。隆景が、兄を恐ろしいと思うのは。 (本文より抜粋) 尾高城で、手合わせをする元春と鹿介のお話です。 過去に投稿した作品への閲覧、いいね・ブックマーク、ありがとうございます! とても嬉しいです!
  • 毛利の爺と尼子の鹿

    涼を得る

    転生ネタ。 暑い日のお話。 全然殺伐としていない二人です。 腐向けのつもりはありませんが、そこそこ二人が仲良くなってほしいという願望のままに書いています。 自分だけが楽しいシリーズなので、需要があれば嬉しいです。
  • 秋の鹿は笛を吹く

    散 髪

    現パロ設定。鹿介(出版社編集バイト)、爺さま(時代小説家兼恋愛小説家)です。内容は爺さんと介護ヘルパー。 閲覧・ブックマーク・お気に入り等、ありがとうございます。二次創作の励みになっております。
  • 秋の鹿は笛を吹く

    剃刀

    現パロ、爺さん(歴史小説家兼恋愛小説家)と山中君(介護ヘルパー、出版社バイト兼家政夫)の話。爺さんが剃刀で怪我するので苦手な方はご注意下さい。今回、ちょっとシリアス。 閲覧、ブックマーク、いいね、誠にありがとうございます。
  • 落月屋梁へ至る

    利三の顔にすっころび初めて無双シリーズを予約し、発売カウントダウンの公式イラストで頭を殴られ、イベントムービーでトドメを刺されました。 「暴れ鹿」ムービーの後にあったかもしれない鹿介と利三の短いお話です。 捏造と妄想と幻覚、主に利三の口調詐欺です。キャラクター理解がまだまだ浅いかもしれませんが、何卒ご容赦ください。
  • 毛利の爺と尼子の鹿

    雨後へ

    転生ネタ。 前回(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15782171)のちょっと後までの話。 今生は仲良くなりたいけれど、まだ踏み込めきれてなかった鹿の話。 腐向けのつもりはありませんが、そこそこ二人が仲良くなってほしいという願望のままに書いています。 普通に敵意なしで過ごしてます、ご注意ください。
  • 鷹に叢雲、白萩の鹿

    猟犬の賭

    注意))冒頭にオリキャラが出ます。苦手な方は、閲覧ご注意下さい。時間軸は尾高城脱出後です。 テーマ『アクションシーンを書く(その3)』『元春兄貴の思惑』『爺さんと息子のほのぼの』私の場合、脳内で山中君と元春兄貴を対戦させると、何故かこうなってしまいます。理由を従姉妹に尋ねると、脳筋だからだそうです。ごめんな、山中君…。本当は尾高城でと思いましたが、やることが、やることが多い……。 閲覧、ありがとうございます。本当は二部に分ける予定でしたが、それだと話が上手く繋がらないので、長くなってしまいした。冗長な小話を読んでいただき、ありがとうございます。
  • 無題

    初めて、文字というものを書きました。 小早川隆景という人物像を自分なりに解釈したくて、 テーマは決めないで書かせていただきました。 私から見る戦国無双の小早川は、達観とした姿と子供臭さ(この場合は末っ子感)を感じます。 しかし、実際は誰よりも冷徹でいてほしい……。あくまでも、いてほしい、に留り、そうでなはない。なりきれない未熟さもある。 そこに愛らしさが込み上げてきます。 作中では、鹿介に代弁してもらいました。 変わって、鹿介のきちんとした面を書きたくて、いろいろと考えながら書きました。 月山富田城の「爺さん、上手いように使っている」発言が印象的で、この人は物事をしっかりと見据える人なんだと感じました。 いろいろとつたない文章ですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。
  • 毛利の爺と尼子の鹿

    夕立

    転生ネタ。 突然の雨に降られた鹿のお話。 今回の爺さんはちょっと世話焼き。 だんだんと距離の近づく二人。 腐向けのつもりはありませんが、そこそこ二人が仲良くなってほしいという願望のままに書いています。 自分だけが楽しいシリーズなので、需要があれば嬉しいです。
  • 毛利家と鹿介でコピペ改変

    『戦国無双5』の毛利家と鹿介でコピペネタを改変したもの。 キャラ崩壊あり、時代背景・設定無視など、なんでも許せる人向け。
    11,692文字pixiv小説作品
  • 鷹に叢雲、白萩の鹿

    月下問答Ⅲ

    テーマ『坊っちゃんと山中君が話したら』。ちょっとホラーが入ってます。苦手な方はスルーしてください。あと、どうでもいい話ですが、筆者に甥っ子が誕生した際、お祝いに五月人形(山中鹿介モデル)を贈ろうとしたら、姉より『うちの息子をMにする気か。』と断られました。
    11,020文字pixiv小説作品
  • 秋の鹿は笛を吹く

    同居人

    注意: 猫(オリキャラ)が出てきますが、猫は猫であって、猫以外の何者でもありません。あしからず。本当は猫と爺さんを戯れさせたかっただけです(趣味)。今回、説明回のため長くなりました。すみません。 一応、このシリーズのざっくりあらすじは、『前世の記憶があるけど、余りにも黒歴史なので、記憶のないフリをしている元就爺さんと爺さんに前世の記憶があるかもと、実は疑っている山中君』です。 閲覧、いいね、ブックマーク、ありがとうごさいます。今回、文章長くてすみません。
  • 戦国乱世が行方不明シリーズ

    爺さんと子どもたち

    注意!!)) ゲームのネタバレあります。例の如く、戦国乱世は行方不明です。元就爺様が只の爺さま。山中君が只の好青年。ダークサイドのない明智さん。斎藤さんが只の主大好きさんです。筆者としては『近所の爺さん』と『ホテイシメジ』が書けて満足です。 ちなみに、隆景君が小早川家に養子に行ったのは、まだ徳寿丸と呼ばれていた頃なのですが、混乱しそうなので、隆景君で通しました。あしからず。 閲覧、ブックマーク、いいね、ありがとうございます。
  • 鷹に叢雲、白萩の鹿

    猟犬と鹿

    今回のテーマ『アクションシーン』『格好いい山中君と元春兄貴』 時間軸は尾高城、脱出前です。 前回から閲覧、ブックマーク、いいね、ありがとうございます。ちなみに『貞永式目』は『御成敗式目』のことです。あと筆者の趣味なのですが、ここの元春兄貴はプライベートは『俺』で、仕事の時は『私』と使い分ける人です。
  • 秋の鹿は笛を吹く

    繁縷

    閲覧注意)) 現パロです。ぐだぐだ爺さんと、今も昔も振り回される山中君の話。今回、湯たんぽ的な意味で密着率高めですので、くれぐれも御注意下さい。 閲覧、ありがとうございます。ちなみにハコベのネタは、甥っ子の自然体験教室で実際に見せてもらいました。本当に綺麗でした。
  • 月は見ていた それぞれの想いを (鹿利)

    ※いつもの光秀×利三とは別の話になります、単体で読んでください。 あくまでも戦国無双5ベースになります。 思いのままに書き殴ったので考察、設定など食い違いあるかと思いますが広い心で見て頂けると幸いです。 戦国時代に中秋の名月って言うのかよくわからないですが…色々と気になる事はあったのですが、そのまま書き殴りました。 多分この時期だしネタ被りしているかと思いますが生暖かい目で見てください。 この後の話を続けて書こうかと思ったのですが、せっかくなので今日に間に合わせようと思って切り上げました。 エチエチではないです(珍しく) いつも、イイね、ブクマありがとうござます。
  • 戦国乱世が行方不明シリーズ

    爺さんは通常運行

    『爺さんと遭遇』の続きです。例のごとく戦国乱世は旅行中、山中君が普通に好青年。爺さんが少し昔を思い出すだけの話です。筆者が元就受け書きですが、『LIKE』はあるが『LOVE』はないのでそういう展開にはなりません。今回、ややシリアスが申し訳程度に入ってます。
  • オリオンの魔女は、優雅に笑う。

    涼風

    女体化注意!!元就爺さんが婆さんで、元春兄貴が姉貴です!! テーマ:『爺さんが婆さんで、元春が娘だったら。』今回は元春姉貴のお仕事について、筆者の妄想はなはだしいので、苦手な方はスルー、お願いいたします。ちなみに作中に出てくる砥茶色(とのちゃいろ)は砥石の色のことです。 閲覧、ありがとうございます。筆者の妄想話を読んでいただき、本当にありがとうございます。 追記 『涼風』と『彼女の仕事』を併合しました。

このタグがついたpixivの作品閲覧データ

おすすめ記事

pixivコミック 週間ランキング

  1. 1

    少女マンガなら叶わない恋

    ほわこ

    読む
  2. 2

    おひとり様には慣れましたので。 婚約者放置中!

    原作:荒瀬ヤヒロ/漫画:晴田 巡

    読む
  3. 3

    永年雇用は可能でしょうか

    漫画:梨川リサ 原作:yokuu

    読む

pixivision

カテゴリー